2016年03月06日

愛される → 「愛する」!! 〈家庭連合時代の中心者とは?〉



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投入して忘れ、投入して忘れ、
ついには自己概念までも
すべてなくなる
ゼロ・ポイントに進入するのです。

それを継続する人が
中心者となり、
孝子の中の孝子になります。



阿部局長のWeb説教。
最新版は、「仕える人と仕えられる人」です。
抜粋して紹介します。


人間関係を「仕えられる人」と「仕える人」という観点で、
二つに分けて考えてみたいと思います。

「仕える人」とはどんな人でしょうか?
一般的には、主人に仕える「僕」や「召使」を想像することでしょう。
そうすれば、「仕えられる人」とは「主人」ということになります。
簡単に考えれば、仕えられる人は「偉い人」「身分の高い人」であり、
仕える人は「従う人」「身分の低い人」というイメージになります。

このように見ると、仕えられる人は恵まれた人、幸せな人に見えるので、
多くの人が人の上に立ちたい、
仕えられる人になりたいと願うのではないでしょうか。


では、その仕えられる姿が本当に幸せをつかむ姿、生き方でしょうか?

聖書を見るならば、反対に「仕える人なりなさい」と説かれています。
その聖句を紹介します。


イエスは彼ら(弟子)を呼び寄せて言われた、
「あなたがたの知っているとおり、
異邦人の支配者たちはその民を治め、
また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
あなたがたの間ではそうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で
偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、
僕とならねばならない」
(マタイ、20・25〜27)


このように、偉くなりたいと思う者は、謙虚な人、謙遜な人、
仕える人とならなければならないと語られています。
また、次のような聖句があります。


弟子たちがイエスのもとにきて言った、
「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、
彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。
心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
天国にはいることはできないであろう。
その幼な子のように自分を低くする者が、
天国でいちばん偉いのである。
(マタイ18・1〜4)


このように、「幼な子」のような純粋さが大切であり、
「自分を低くすること」の大切さが強調されています。


家庭連合においても、神様を中心とした人生、
信仰の生活において大切なことは「仕える人になる」こと、
「侍る人になる」ことと強調しています。

それは神様に仕える生活であり、周りに人にも神様に対するように
仕えることこそ本質的な生き方であると言うことです。

真のお父様の自叙伝の中に、次のような内容があります。


子供たちが来れば、「聖書」のみ言を付け加えた
童話を聞かせて、一緒に遊びました。
子供であっても必ず敬語を使い、真心を込めて世話しました。

・・・・訪ねてくる人には、三歳の子供であろうと
腰の曲がった目の遠い老人であろうと、
愛の心で敬拝し、天に対するように仕えました。

年取ったお爺さん、お婆さんが訪ねてきても、
夜遅くまで話をしました。
「なんだ、年をとった老人なので嫌だな」
という思いを持ったことは一度もありません。

人は誰でも尊いのです。
人が尊いことにおいて、老若男女に差はありません。
(自叙伝「平和を愛する世界人として」P97)


このように、人間関係の基本は相手が誰であろうと、
神様に対するように仕える姿勢が大切であることが分かります。


さらに大切なことは、行動だけ、
形だけ仕えることではなく、どんな心で仕えるかです。
愛の心で仕えてこそ、本物の仕える人です。

愛の心とは、相手の幸せのために喜んで仕えてあげることです。
仕方なく仕えることや渋々仕えることは、愛の心とは言えません。
ましてや、要求の心を持って仕えるようでは
良い関係を作ることもできないし、発展もありません。

愛の心で父母に仕え、孝行する人は「真の子女」と言えます。
愛の心で兄弟姉妹に仕え、分かち合う人は「真の兄弟姉妹」です。
また、愛の心で夫や妻に仕え、愛する人は「真の夫婦」であり、
愛の心で子供に仕え、犠牲と奉仕で生きる人は「真の父母」と言うことです。
父母が子供を世話する姿、子供の為に苦労する姿は、まさに「仕える人」です。


これらのすべての基準を勝利された方が文鮮明先生ご夫妻・「真の父母様」です。
真の父母様が生涯を通して貫かれた姿勢は「父母の心情 僕の体」でした。

真の父母様は、誰に対しても父母の心情という
真の愛を動機にして接してこられました。
そして、犠牲と奉仕、精誠の生涯だったので、
外的に見れば僕のような姿でもありました。

真のお父様が宗教迫害によって監獄暮らしをされた時も、
多くの囚人が餓死するような壮絶な空腹の中にも関わらず、
自分の食事の半分を周りの囚人に与える、
驚くような愛の行動をされたのも仕える生き方の現れです。

監獄の中で監房長でも、凶悪な殺人犯であったとして
も親しくなったと言いますが、まさに仕える姿勢があったからでしょう。


一般的に見ても、愛することなく、愛されることのみ願う人は
周りの人から敬遠されます。
同じように、仕えようとせず、仕えられることのみを願う人は敬遠されます。

反対に、愛の心を持って仕える人には、自然と人が集まります。
神様に仕え、他の人に仕えようとする生き方をしている人には、
人が集まるだけでなく、仕えなさいと命令されなくても
周りの人は自然に仕えたくなるものです。


組織におけるリーダーシップも時代の移り変わりと共に変化しています。
今までの典型的なリーダーは、全体を力強く牽引する
カリスマ的リーダーでした。

リーダーに従って一丸となって取り組むことが発展の常識でした。
しかし、今の時代は各個人の個性が尊重され、
メンバーが主人意識を持って創造性を発揮することで
発展する時代と言われています。

そのような時代に合わせて、リーダーのあり方も
カリスマ的なティーチングスタイルから
サーバント的なコーチングスタイルに変化すべきです。
まさに主人に仕える僕のように「仕えるリーダーシップ」です。

メンバーに僕のように仕え、メンバーの可能性と
能力を引き出すように支援する姿勢です。
リーダーから愛の心で仕えられたメンバーは
責任感と主人意識を持って成長するようになります。

家庭連合における2020年まで意識すべき
年頭標語の最後の締めくくりの言葉に、
「天一国の真の主人になろう」とあります。
すべての人が真の主人になるためには、
仕える文化が定着することが必要です。


真の父母様は、私たちがもつべき必要な姿勢として、
絶対信仰、絶対愛、絶対服従、すなわち信仰と愛、
そして服従の大切さについて強調されます。
最後の「服従」は、仕えること、
侍ることと捉えると良く理解することができます。

それに関するみ言を紹介いたします。


「絶対服従とは、自分自身までもすべてなくして
完全投入することを意味します。

このように投入して忘れ、投入して忘れ、ついには
自己概念までもすべてなくなる
ゼロ・ポイントに進入するのです。

愛を否定されてももっと愛し、
投入してももっと投入してこそ、
怨讐を真の愛で自然屈服させる位置まで
行くようになるのです。

神様がそのような道を歩んでこられ、
天地父母がそのような道を歩んでこられたのです。

投入して忘れ、投入して忘れることを継続する人が
中心者となり、全体相続者となり、
孝子の中の孝子になります」
(2002.02.02)


このように、仕えることの究極である「服従する人」が中心者となり、
全体相続者となり、孝子になるということです。
「仕えられる人」になろうとするのではなく、
「仕える人」になって愛の人生を貫いていきましょう。



家庭連合時代に入り、さらに本然の時代、
天が願われる時代に入ったということを感じます。
だからこそ、私たちも変わらなければならないと思います。

「仕えられる人」から「仕える人」にならざるを得ないのは、
家庭ではないでしょうか。
詳細は省略しますが、私も子供の人数が増えれば増えるほど
「仕える人」にならざるを得なくなりました(笑)

そういう意味では、人類一家族という意識を持つだけでなく、
私たちが本当に実践していくならば、
自然と「仕える人」になっていくのだと思います。
それが神氏族メシヤの道でもあると思うのです。


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posted by ten1ko2 at 08:36 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする