投入して忘れ、投入して忘れ、
ついには自己概念までも
すべてなくなる
ゼロ・ポイントに進入するのです。
それを継続する人が
中心者となり、
孝子の中の孝子になります。
☆
ついには自己概念までも
すべてなくなる
ゼロ・ポイントに進入するのです。
それを継続する人が
中心者となり、
孝子の中の孝子になります。
☆
阿部局長のWeb説教。
最新版は、「仕える人と仕えられる人」です。
抜粋して紹介します。
☆
人間関係を「仕えられる人」と「仕える人」という観点で、
二つに分けて考えてみたいと思います。
「仕える人」とはどんな人でしょうか?
一般的には、主人に仕える「僕」や「召使」を想像することでしょう。
そうすれば、「仕えられる人」とは「主人」ということになります。
簡単に考えれば、仕えられる人は「偉い人」「身分の高い人」であり、
仕える人は「従う人」「身分の低い人」というイメージになります。
このように見ると、仕えられる人は恵まれた人、幸せな人に見えるので、
多くの人が人の上に立ちたい、
仕えられる人になりたいと願うのではないでしょうか。
☆
では、その仕えられる姿が本当に幸せをつかむ姿、生き方でしょうか?
聖書を見るならば、反対に「仕える人なりなさい」と説かれています。
その聖句を紹介します。
イエスは彼ら(弟子)を呼び寄せて言われた、
「あなたがたの知っているとおり、
異邦人の支配者たちはその民を治め、
また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
あなたがたの間ではそうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で
偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、
僕とならねばならない」
(マタイ、20・25〜27)
このように、偉くなりたいと思う者は、謙虚な人、謙遜な人、
仕える人とならなければならないと語られています。
また、次のような聖句があります。
弟子たちがイエスのもとにきて言った、
「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、
彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。
心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
天国にはいることはできないであろう。
その幼な子のように自分を低くする者が、
天国でいちばん偉いのである。
(マタイ18・1〜4)
このように、「幼な子」のような純粋さが大切であり、
「自分を低くすること」の大切さが強調されています。
☆
家庭連合においても、神様を中心とした人生、
信仰の生活において大切なことは「仕える人になる」こと、
「侍る人になる」ことと強調しています。
それは神様に仕える生活であり、周りに人にも神様に対するように
仕えることこそ本質的な生き方であると言うことです。
真のお父様の自叙伝の中に、次のような内容があります。
子供たちが来れば、「聖書」のみ言を付け加えた
童話を聞かせて、一緒に遊びました。
子供であっても必ず敬語を使い、真心を込めて世話しました。
・・・・訪ねてくる人には、三歳の子供であろうと
腰の曲がった目の遠い老人であろうと、
愛の心で敬拝し、天に対するように仕えました。
年取ったお爺さん、お婆さんが訪ねてきても、
夜遅くまで話をしました。
「なんだ、年をとった老人なので嫌だな」
という思いを持ったことは一度もありません。
人は誰でも尊いのです。
人が尊いことにおいて、老若男女に差はありません。
(自叙伝「平和を愛する世界人として」P97)
このように、人間関係の基本は相手が誰であろうと、
神様に対するように仕える姿勢が大切であることが分かります。
☆
さらに大切なことは、行動だけ、
形だけ仕えることではなく、どんな心で仕えるかです。
愛の心で仕えてこそ、本物の仕える人です。
愛の心とは、相手の幸せのために喜んで仕えてあげることです。
仕方なく仕えることや渋々仕えることは、愛の心とは言えません。
ましてや、要求の心を持って仕えるようでは
良い関係を作ることもできないし、発展もありません。
愛の心で父母に仕え、孝行する人は「真の子女」と言えます。
愛の心で兄弟姉妹に仕え、分かち合う人は「真の兄弟姉妹」です。
また、愛の心で夫や妻に仕え、愛する人は「真の夫婦」であり、
愛の心で子供に仕え、犠牲と奉仕で生きる人は「真の父母」と言うことです。
父母が子供を世話する姿、子供の為に苦労する姿は、まさに「仕える人」です。
☆
これらのすべての基準を勝利された方が文鮮明先生ご夫妻・「真の父母様」です。
真の父母様が生涯を通して貫かれた姿勢は「父母の心情 僕の体」でした。
真の父母様は、誰に対しても父母の心情という
真の愛を動機にして接してこられました。
そして、犠牲と奉仕、精誠の生涯だったので、
外的に見れば僕のような姿でもありました。
真のお父様が宗教迫害によって監獄暮らしをされた時も、
多くの囚人が餓死するような壮絶な空腹の中にも関わらず、
自分の食事の半分を周りの囚人に与える、
驚くような愛の行動をされたのも仕える生き方の現れです。
監獄の中で監房長でも、凶悪な殺人犯であったとして
も親しくなったと言いますが、まさに仕える姿勢があったからでしょう。
☆
一般的に見ても、愛することなく、愛されることのみ願う人は
周りの人から敬遠されます。
同じように、仕えようとせず、仕えられることのみを願う人は敬遠されます。
反対に、愛の心を持って仕える人には、自然と人が集まります。
神様に仕え、他の人に仕えようとする生き方をしている人には、
人が集まるだけでなく、仕えなさいと命令されなくても
周りの人は自然に仕えたくなるものです。
☆
組織におけるリーダーシップも時代の移り変わりと共に変化しています。
今までの典型的なリーダーは、全体を力強く牽引する
カリスマ的リーダーでした。
リーダーに従って一丸となって取り組むことが発展の常識でした。
しかし、今の時代は各個人の個性が尊重され、
メンバーが主人意識を持って創造性を発揮することで
発展する時代と言われています。
そのような時代に合わせて、リーダーのあり方も
カリスマ的なティーチングスタイルから
サーバント的なコーチングスタイルに変化すべきです。
まさに主人に仕える僕のように「仕えるリーダーシップ」です。
メンバーに僕のように仕え、メンバーの可能性と
能力を引き出すように支援する姿勢です。
リーダーから愛の心で仕えられたメンバーは
責任感と主人意識を持って成長するようになります。
家庭連合における2020年まで意識すべき
年頭標語の最後の締めくくりの言葉に、
「天一国の真の主人になろう」とあります。
すべての人が真の主人になるためには、
仕える文化が定着することが必要です。
☆
真の父母様は、私たちがもつべき必要な姿勢として、
絶対信仰、絶対愛、絶対服従、すなわち信仰と愛、
そして服従の大切さについて強調されます。
最後の「服従」は、仕えること、
侍ることと捉えると良く理解することができます。
それに関するみ言を紹介いたします。
「絶対服従とは、自分自身までもすべてなくして
完全投入することを意味します。
このように投入して忘れ、投入して忘れ、ついには
自己概念までもすべてなくなる
ゼロ・ポイントに進入するのです。
愛を否定されてももっと愛し、
投入してももっと投入してこそ、
怨讐を真の愛で自然屈服させる位置まで
行くようになるのです。
神様がそのような道を歩んでこられ、
天地父母がそのような道を歩んでこられたのです。
投入して忘れ、投入して忘れることを継続する人が
中心者となり、全体相続者となり、
孝子の中の孝子になります」
(2002.02.02)
このように、仕えることの究極である「服従する人」が中心者となり、
全体相続者となり、孝子になるということです。
「仕えられる人」になろうとするのではなく、
「仕える人」になって愛の人生を貫いていきましょう。
☆
家庭連合時代に入り、さらに本然の時代、
天が願われる時代に入ったということを感じます。
だからこそ、私たちも変わらなければならないと思います。
「仕えられる人」から「仕える人」にならざるを得ないのは、
家庭ではないでしょうか。
詳細は省略しますが、私も子供の人数が増えれば増えるほど
「仕える人」にならざるを得なくなりました(笑)
そういう意味では、人類一家族という意識を持つだけでなく、
私たちが本当に実践していくならば、
自然と「仕える人」になっていくのだと思います。
それが神氏族メシヤの道でもあると思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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