平壌時代、迫害が起きた
単純で複雑ないきさつとは?!
☆
私たちは、純潔を大切にし、一般より
はるかに男女問題に厳しい教会であるのに、
「淫乱の教会」のようなデマが流れたのはどうしてでしょうか?
真理と愛を、何よりも求め、心がける
そのような教会なのに、
似非宗教のように言われてきたのはどうしてでしょうか。
現在は、家庭連合時代となり、
真の父母様がおられ、万民に祝福を与えることができる
時代となりました。
しかし、草創期、また、教会以前の黎明期においては、
多くの家庭問題がおきました。
それが、現代にまで尾を引いているのかもしれません。
金元弼先生の「伝統の源流」、
今日は、教会を反対し迫害する理由・続編です。
昨日お伝えしたように、平壌のキリスト教は、最終的に
共産党に密告するようになりました。
どうしてそのようにしたのか、
そこまでになる以前のいきさつが、紹介されています。
☆
反対された理由の一つは、神の啓示の意味はよく知っているのですが、
霊能者たちは聖書を通して説明が十分できなかったからです。
もう一つは、初期の人たちの伝道は結果をまず先に立てて、
特に「再臨主が来ています」というようなかたちで行ったのでした。
それで大変な迫害に遭ったのです。
(また、さらにもう一つの理由があります。)
こうして伝道していた人たちは、非常に信仰が篤かったので、
家庭においても教会においても、他の人の模範となっていた人たちでした。
この人たちがみ言の恵みにあずかると、元の教会にも家にも帰らず、
教会にとどまってみ言を聞き、信仰の交わりをもつ時間が多くなっていきました。
☆
一つの例を示しますと、結婚して間もない家庭がありました。
夫に対してよく世話をする、仲の良い夫婦でした。
また熱心なキリスト教の家庭でもありました。
奥さんがみ言に接すると、夫の夕食の時間になっても
以前のようには準備ができませんでした。
既成教会にいるときには本当によくやってくれたのに、
うわさによれば若い青年の先生が牧会するという教会へ行くようになってからは、
以前のようにはよくしてくれなくなったと気が付きました。
そしてなぜだろうという疑いをもたざるを得ませんでした。
また教会へ行くという理由で、夫と共にする時間をどんどん断っていきます。
☆
このことよりももっと理解できない一つの問題がありました。
皆様は原理を聞いてよく理解していますから、
その理由は何かということはよく御存じでしょうけれども、
彼女がみ言を受け入れて、先生がどれほどの方かを知り、
そしてこの恵みの生活の中にあって、
彼女自身に一つの大きな異変が起こっていました。
今までは夫との関係はこの上ない幸せなものでありました。
けれども、夜になって夫と一緒に寝ていても、夫が近寄ってくると、
蛇が近寄ってくるように嫌な感じがするというのです。
誰が彼女に教えたのでもないのに、そのように感じられて仕方がないというのです。
しかし夫にはそれが理解できなかったのです。
彼女もなぜそんなに嫌になってくるのか理由が分かりませんでした。
皆さんはそのことが理解できますか?
皆さんでしたら、なぜそうなるのか、その夫人や主人に説明ができるでしょうか。
☆
1946年ころのことですので、先生以外は
誰もそれに対して説明してあげる者はいませんでした。
しかし、啓示を受ける人は、原理的な説明はつかないけれども、
なぜそういうことが起こるのかという簡単な説明はできました。
若い婦人やだんなさんだけに起こるのではなく、壮婦においても、
たとえ六十以上のおじいさんおばあさんであっても、
こういうことは共通して起こりました。
家でのこうしたお話は、夫婦間のことですから、
誰かに言うこともできない難しい問題でした。
韓国の1946年ころの社会では、そうしたことは言い出し難い問題でした。
☆
そこで、そうした婦人のだんなさんは、他のことで少し時間が遅れるとか、
よくやってくれないということに対しては、まだ理解しようとするのです。
しかし、このことについては理解し難かったのでした。
彼らから見れば先生は若く非常にハンサムですから、
自分の奥さんが教会へ行くことによって、先生の方をより愛しているから
こういう態度をとるのではないかと疑いを強くし始めたのです。
☆
そして、家庭での迫害が始まりました。
「教会にはこれから出ないようにしなさい」ということになったわけです。
しかし、いつもいつも主人と一緒にいるわけでもないのですから、
そう言われても時間の合間を利用して先生の所を訪ねました。
苦しい中でどのように信仰をもち続けていったらいいのか、
アドバイスを受けざるを得ませんでした。
また食口に会うことで大変力づけられ、慰められるので、
迫害されればされるほど教会を訪ねて行くのでした。
☆
彼女たちの夫は、仕方なく自分の親を訪ねて、
自分の奥さんに関するすべての話を報告するのでした。
韓国では、自分の娘が他家へ嫁に行ってそこから追い出されると、
再婚することは許されませんでした。
そこで、その嫁入り先のだんなさんにたとえ難しいことがあっても、
我慢して幸せをつかむようにと教育していました。
大変仲の良かった夫婦なのに、自分の娘が教会へ行くことによって、
二人の仲が悪くなり、家庭が破壊状態になっているのを聞くと、
お父さんはそのだんなさんに加勢するのです。
そして娘には教会へ行くのをやめさせようとしたのでした。
今まで娘に手を出したこともない親でしたけれども、
自分の娘に手を出したりするようになりました。
しかしながらその娘を引き止めることはできませんでした。
なぜならば、その娘は統一教会と出会うことで
この上もない神の恵みを得ていたからです。
また真理が分かったという確信をもっていたからでした。
☆
お父さんは教会の中心者である牧師を訪ねて、
自分の娘のことを話さざるを得ませんでした。
そうしたらその牧師が若い先生を訪ねて、どれほど異端なのか、
間違っているのかを目の前で証明して、
娘さんを教会から離してくれるだろうと思い、
相談することを心に決めたのでした。
ところが、牧師は一人では先生に会って議論する自信がないと思ったのです。
それで平壌中のいろいろな重要な教会の牧師と力を合わせて、
先生を訪ねると決めたのでした。
☆
皆様、婦人の例を取り上げましたけれども、
教会に来ている他の食口たちが属している既成教会の牧師たちも、
全く同じような立場に立っていました。
おじいさんが統一教会へ来ました。
ところが、おばあさんとの間にさっきお話ししたようなことが起こったのでした。
おばあさんは同じように疑ったのです。
おじいさんのことをどうしてそんなに疑うのか
理由が分からないと考えると思います。
先生は男であるから。
そのおばあさんは、自分のおじいさんが
教会に行くことによって変わったというのです。
教会にはおばあさんも通っているし、若い中年の婦人もいます。
おじいさんと同じような年のおばあさんもいるから、
そうしたおばあさんと仲が良くなって、自分に近寄らないと疑ったのでした。
この家庭内で起きた、疑いの話を聞いて、
牧師はこの教会は大変間違った教会であると決めつけたのでした。
☆
こうした人たちは、反対する夫や妻の話を裏付けるかのように夜遅く帰ったり、
時には泊まりがけで通っていました。
礼拝は男と女が一緒になって行い、時には踊る人もいます。
こういう姿を見ると、これは間違いであると考え始めたのです。
☆
この「蛇」の証しは、かつて
周藤先生から、聞いたことがありました。
しかし、今回、金元弼先生を通して、
詳しく知ることができました。
結婚したばかりの若い女性だけでなく、
まさか、おじいさんにまで同じようなことがあったとは。。。
当時、真のお父様に侍った人たちは、
本当に難しい試練にあったのだと思います。
お父様は、家族の心配が分かるので
「教会に来るな、先生に会いに来るな」と言われるのに、
お父様が慕わしくて仕方がないし、
み言聞きたくて仕方がない・・・
だから、迫害されても行きたいのです。
そして、家族や牧師たちから見れば、
特別な関係があるのだと
そのように思ってしまうのも、わからないわけではないですね。。。
このような誤解と迫害は、
統一教会ができてからも起こってきました。
「六マリヤ」という特別な用語も
このようなことを発端に出発したのではないかと思います。
☆
思うに、彼らが御主人や奥さんと
教会に一緒に行っていれば、
このような誤解は起こることはなかったはずです。
真実を知れば、疎外感を感じることもなく、
反対をすることもないでしょう。
これは、現在の教会、また祝福家庭の中でも
起こり得ることです。
「伝道」は、内部伝道(家庭伝道)も含めて、
最も有効な方法かと思います。
み言に感動し、無邪気に喜んだとしても、
恵みを独り占めしてしまってはいけないですね。
よいみ言だから、家族にも伝えたい、
そのように、なっていきたいものです。
み言は素晴らしいけれど、
み言の実体になることは、簡単ではないと思うのです。
☆
お母様がよく、「私たちは幸せです」と言われますが
本当にその通りだと思います。
真の父母が立ったことで、今は祝福の恩恵があるということ、
多くの人を家庭ごと、氏族ごと伝道できること、
それがどれだけ、幸福なことでしょうか。
古い先輩たちが、このような考えられない試練を通過してくださり
その土台の上に、今の時を迎えていることを思いつつ、
改めて感謝したいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)