2016年04月12日

ただ訓読するだけでは、もったいない?! 統一原理は、骨の骨!! 《可知講師の真の父母様の生涯路程》



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統一原理は
お父様の生涯の記録であり、
生活体験。

原理は骨の骨
じっくり読み解けば
神の心情の世界に到達する



先日、可知講師をお迎えして
特別研修会が行われました。

可知講師は歴史編纂委員会のメンバーでもあり、
「真の父母様の生涯路程」の講義においては、
右に出る人がいないくらいに素晴らしい講義をされる方です。

全国津々浦々、たくさんのところで講義しておられますが、
講義をするたびごとに「進化」するのだといいます。

毎回、毎回、啓示のごとく、
いろいろなことが与えられてくるのだそうです。

その可知講師が原理について
こんなことを言われていました。


真のお父様が解明された統一原理は、
骨のようなものであると感じます。
骨はそのまま食べてもおいしくないですね(笑)

でも、豚骨スープを例にあげてみると
豚骨をじっくり煮込むとエキスが出て
本当においしいです。

そのように、原理を研究すればするほど、
その深さに感銘します。

原理講論に、「神とは、本性相的男性と
本形状的女性との二性性相の
中和的主体であると同時に・・・」
それだけ読んでもわかりませんね。

でも、骨の骨なので、じっくり読み解いていくと
神様の心情の世界に到達していくのです。

ただ訓読するだけではもったいない、
その背後の深い心情の世界を求めると
原理って、本当に素晴らしいなぁ、と感じるのです。
(文責ten1ko2)



可知講師は毎日、毎日講義をされ、
また、原理を精読しておられますから、
いろいろなことが与えられるのだと思います。

今後、多くの有識者の方たちが導かれて、
原理の研究をしていかれると思います。
そういう中で、ありとあらゆる分野で
原理を土台とした、生活実践がなされていくと思います。

私たちもさきがけて原理を知ったものとして、
もっと深く求めていくなら、
そのごとく与えられていくに違いないのです。

最後に可知講師が紹介してくださった
真の父母経のみ言です。
統一原理が真のお父様に直結していることを
明確に語られています。




真のお父様のみ言

統一原理は私の生涯の記録でもあります。
それは、私自身の生活体験です。

この統一原理は私の中にあり、
私は統一原理の中にいます。

人々が私と私の行動を理解する唯一の方法は、
統一原理に通じることのみです。

統一原理を知って研究することによってのみ、
私を理解することができます。

原理を研究すればするほど、
私をさらによく理解できるというのです。



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2016年04月11日

「生活伝道」! 世界と生活の中心に、神と父母を置いてみる?! 《金元弼先生》





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金元弼先生の「生活伝道」より
「目に見えないものと共にある生活」
昨日の続きをどうぞ。


真の父母のみ言を常に心に秘めて、
夫婦が共に常に手を握り合っていきましょう。

また教会ではリーダーとメンバーが、
兄弟共にそのように生活していきましょう。

神と真の父母を中心として夫婦が一つになるということは、
すべての中心になるのです。

これを間違うとするならば、夫婦が別れ、
神が私たちから去り、真の父母が去り、善霊界が去り、
その代わりにサタンが、悪霊が、
悪い人たちが私を訪ねてくるというのです。

私たちは今晩からずっとこれを続けていきましょう。

今までは自分だけだと思いましたが、
真の父母と神に守られていると考えましょう。


先生はそういう生活をしておられます。

先生が一人で部屋におられ、非常に疲れて横になりたいという時、
先生はどうされたのでしょうか?

先生は一人でいらっしゃるのではないのです。
神がおり、善霊界がいます。

ですから先生はだれもいなくても、目には見えなくても、
「神様、私は疲れていますので横になりたいのですが、
よろしいでしょうか?」と尋ねて、それから横になったというのです。

先生はこのように暮らしておられるのです。


私たちも真の父母に倣い、外に出ても、このように意識するのです。
座る時でも、「神様、真のご父母様、どうか先に座ってください」
と言ってから座ります。

このような生活をするようになるのです。
今まで知らないときには、座っても、食べても、自分一人でしたけれども、
これからはどうしたらいいのでしょうか?

自分が神になり、真の父母になって、食事をする時には
「自分が食べますけれども、神がお上がりになり、
ご父母様がお上がりになる」と考えるのです。


このように考え、意識して生活するのと、
そうでないのと、どう違ってくるでしょうか?

そういうことを意識していくと、
最低でも一年に一回は守ることができるようになります。
そういう意識をもってまたやっていくと、
一カ月に一回はそういう考えをするようになります。
そして一週間に一回となっていくのです。


先生は常にそういう生活をしていらっしゃるのです。
私たちも先生に倣い、私一人ではない、
常に見守られている中でやっているのだということを意識しましょう。
そうすれば、私たちも何をするにしても力が出ます。

今まではいつも自分一人でいて、迫害されたときに、
私は寂しいと考えていたのです。

そして神は私の事情を知らない、真の父母も知らない、
リーダーも分かってくれない、私の相対者も分かってくれない、
だれも分かる者がいない、そういう時に寂しくなってしまうのです。

しかし、私が迫害されるときに、迫害される私を見る
神と、真の父母を考えましょう。
霊界が見ているとするならば、私は寂しくなるでしょうか?
そうはなりません。

このように、共にある生活というのはどんなに大切なことか分かりましたね。
一人では忘れることがありますから、
夫婦でお互いが忘れたときには話し合っていきましょう。



昨日もそうですが、意識を切り替えることにより、
心情の転換がなされることを思えば、
み言を接する機会を与えられ、
いかに感動を与えられるか、
ブログを書く時は、そのことを意識していますので、
ある面、守られているのだな、と思います。

お父様は、神様の声を聴くのではなく、
神様を感じるのだといいます。
お父様の基準に少しでも近づけるように、
神様を知っているだけでなく、ともに生活するということ。
日々、瞬間瞬間、意識しないといけないと感じます。


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2016年04月10日

神が、真の父母が、霊界が、サタンが、いつも私と共にある?! 《金元弼先生の「生活伝道」》



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どこかへ行くときには
私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが
私たちと共にいて
眺めているという生活・・・



金元弼先生の「生活伝道」より。
今回は、「目に見えないものと共にある生活」を紹介します。


私たちお互いが一緒に考えなければいけない点を話しましょう。

私たちは、目で見える、五感で感じることのできるもの、
それだけが存在すると考えがちです。
それは危険な考え方です。

一人でいて、だれもいなければ人のものを盗むことができる、
しかし人が見ていると、これを持っていくことはできないということです。

私たちの今までの過ちは何でしょうか?
それは自分を中心とする考え方からきます。

それは言うまでもありませんが、しかしまた私たちは
「だれも見ていない」という考えをもっているからともいえます。
しかし、私を見ている者はいるのです。


まず自分の心を考えましょう。
心は見えません。
しかし心は私を見ているのです。

夫婦がいるとするならば、その体と体は見えます。
しかし見えない心が私を見ています。
私の心が見ています。

私たちがどこにいても、神が、霊界が、真の父母が、
常に私たちがいる所に共におられるのです。
しかし私たちは、肉的五感だけをもって生活していますから、
それをいつも忘れてしまいます。


私たちはこのように、ご父母様のお写真を置いています。

もし私たちが、真の父母と神に常に侍る生活をするとするならば、
お写真が必要でしょうか?
必要ではありません。

私たちは見える世界で生きていて、
常に見える物だけが存在すると考えながら生活していますから、
常に自分だけしかいないと考えるのです。

ですからそういう心を刺激するために、
このようにお写真に侍る生活をするのです。


キリスト教では、イエス様の十字架をどこにでも置いているのです。
なぜでしょうか?

常にイエス様に侍る心をもって暮らすとするならば、
十字架は必要ではありません。

そうではなく、見える物だけ存在すると考えるから、
そういう物を置くのです。
分かりますか?


私たちには心があるではないですか。
私たちは常に心と相談できるのです。

そういう生活をすれば、常に見えないものと共にある生活をしますから、
神を、真の父母を、善なる霊界を意識しながら
共に生活することができるというのです。

私たちはいつも自分たちだけでいるのではないのです。
心が私と共にあるごとく、神が、真の父母が、霊界が、
サタンが、いつも私と共にあることを考えるべきだというのです。

どこかへ行くときには私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが私たちと共にいて
眺めているという生活をしなくてはいけないのです。

私たちはこういう機会を通して、常に自分だけではない、
常に見られている、という生活をしていきましょう。



目に見えないものと共にある生活こそが、
侍る生活なのだと思います。

そして、心をもっと見つめる生活
そのことも重要だと思います。

わかっていながらも、目の前のことが忙しく
現実のことに追われてしまう・・・
そういったことを悔い改めないといけないと思います。

実は、日々の業務があまりにも忙しくて、
やるべきこと、頼まれることが多くて。。。

正直、ブログ自体も休んだ方がいいかな、
そんなことを思ってしまったときに、
ふと、目にしたみ言でした。

もっと、心を中心として生活すれば、
見えないものが見えてくるようにも思います。

明日に続きます。



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