どこかへ行くときには
私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが
私たちと共にいて
眺めているという生活・・・
私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが
私たちと共にいて
眺めているという生活・・・
☆
金元弼先生の「生活伝道」より。
今回は、「目に見えないものと共にある生活」を紹介します。
☆
私たちお互いが一緒に考えなければいけない点を話しましょう。
私たちは、目で見える、五感で感じることのできるもの、
それだけが存在すると考えがちです。
それは危険な考え方です。
一人でいて、だれもいなければ人のものを盗むことができる、
しかし人が見ていると、これを持っていくことはできないということです。
私たちの今までの過ちは何でしょうか?
それは自分を中心とする考え方からきます。
それは言うまでもありませんが、しかしまた私たちは
「だれも見ていない」という考えをもっているからともいえます。
しかし、私を見ている者はいるのです。
☆
まず自分の心を考えましょう。
心は見えません。
しかし心は私を見ているのです。
夫婦がいるとするならば、その体と体は見えます。
しかし見えない心が私を見ています。
私の心が見ています。
私たちがどこにいても、神が、霊界が、真の父母が、
常に私たちがいる所に共におられるのです。
しかし私たちは、肉的五感だけをもって生活していますから、
それをいつも忘れてしまいます。
☆
私たちはこのように、ご父母様のお写真を置いています。
もし私たちが、真の父母と神に常に侍る生活をするとするならば、
お写真が必要でしょうか?
必要ではありません。
私たちは見える世界で生きていて、
常に見える物だけが存在すると考えながら生活していますから、
常に自分だけしかいないと考えるのです。
ですからそういう心を刺激するために、
このようにお写真に侍る生活をするのです。
☆
キリスト教では、イエス様の十字架をどこにでも置いているのです。
なぜでしょうか?
常にイエス様に侍る心をもって暮らすとするならば、
十字架は必要ではありません。
そうではなく、見える物だけ存在すると考えるから、
そういう物を置くのです。
分かりますか?
☆
私たちには心があるではないですか。
私たちは常に心と相談できるのです。
そういう生活をすれば、常に見えないものと共にある生活をしますから、
神を、真の父母を、善なる霊界を意識しながら
共に生活することができるというのです。
私たちはいつも自分たちだけでいるのではないのです。
心が私と共にあるごとく、神が、真の父母が、霊界が、
サタンが、いつも私と共にあることを考えるべきだというのです。
どこかへ行くときには私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが私たちと共にいて
眺めているという生活をしなくてはいけないのです。
私たちはこういう機会を通して、常に自分だけではない、
常に見られている、という生活をしていきましょう。
☆
目に見えないものと共にある生活こそが、
侍る生活なのだと思います。
そして、心をもっと見つめる生活
そのことも重要だと思います。
わかっていながらも、目の前のことが忙しく
現実のことに追われてしまう・・・
そういったことを悔い改めないといけないと思います。
実は、日々の業務があまりにも忙しくて、
やるべきこと、頼まれることが多くて。。。
正直、ブログ自体も休んだ方がいいかな、
そんなことを思ってしまったときに、
ふと、目にしたみ言でした。
もっと、心を中心として生活すれば、
見えないものが見えてくるようにも思います。
明日に続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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