2016年04月26日

芸術家アボジ!! あふれる才能は、神の心情を表現する?! 《お父様と海と自然4》



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尹世元(ユンセウォン)元鮮文大学校総長による証し。
今回が最後になります。


文先生の深い情は、量ることができません。

この深い情が自然を相手にあふれるとき、芸術的情緒として現れるのです。
この深い情が揮毫に込められるとき、力と霊感にあふれた作品として現れるのです。
この深い情が書画や彫刻、陶磁器、工芸品を鑑賞なさるとき、
専門家の追随を許さない目をもたれるのです。


この文先生の深い情が視覚的に表現されるときは、
調和を基本としておられるように見えました。

調和とは、主体と対象での調和です。
すべてのものが平等で、同じ立場を占めることはできないと、
文先生は考えていらっしゃるようでした。

絵を鑑賞なさるときや、彫刻や建物のように造形美を備えた作品を鑑賞なさるとき、
自然の風景をごらんになるときの文先生は、いつでも中心になるものと、
この中心を取り囲む周囲の環境との調和をごらんになられるようでした。

それゆえ、一度中心を定めておけば、視覚の中へ入ってくる周辺の環境との調和が成されたのか、
成されなかったのかで即座に価値を判断なさるのです。

建築中の建物をごらんになっても、壁の色と取り壊して直すべき部分を即座に指摘なされます。

文先生は、建造中である船に対しても、技術者たちが造った船に上られて見回され、
船首と船尾に至る線の流れを即座に直してくださいます。
本当に横から見ていると、美的感覚が自然にひらめくような感じです。


何年か前、文先生は教授たちを招請してみ言を語られた後、
教授たちの前で「故郷無情」という歌を歌われたことがあります。
このとき、歌詞と曲に合わせて、文先生独特のメロディーで
渾身から湧き出る歌を歌われたとき、多くの教授が涙を流しました。

文先生は歌を歌われるとき、歌詞を口で歌うのではなく、
まず感と情が主体であり、口と音は道具として使われるだけです。
それゆえに、歌全体が歌詞に合う感情の流れとなるのです。

このように、文先生は音楽に対しても深い理解を持っていらっしゃいます。
民謡であれば民謡として、ポップソングであればポップソングとして、
ジャズであればジャズとして、古典音楽であれば古典音楽として深い理解をしておられ、
踊りと歌と音楽は、すべての人が一つになる近道だと考えられて、
踊りと歌と音楽で和動の母体をつくられるのです。


文先生は説教される度ごとに、神様に孝誠を尽くせと教えられます。
孝誠は理と法で説明できないものであり、ただ、深い情感としてだけ説明できるのです。

私は神様の心情と触れ合う文先生の深い心情が、
文先生の芸術的資質を高揚させるのではないのかと、考えてみるのでした。



ある意味、お父様は「神様の心情を表す芸術家」であると言えると思います。
神様の心情を歌に表され、また揮毫に表されます。

先日、聞いた話ですが、書道の大家がお父様が書かれたある揮毫の一文字を見て、
「この字は普通の人が書くことのできない文字です。
もの凄く価値のある字であるとともに、天の気が強く表れた字です」
そのように証しされたそうです。

神様と完全に一つになっておられるお父様。
そのお父様に侍ることができるということ、
それ以上の感謝はありません。


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