2016年05月13日

(証し) 真尊影が笑ってくれ、質問に答えてくれた!!



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他教会でありますが、伝道の証しを紹介します。
10年前に教会を離れた方が、再び導かれてきました。
その方が、祈願礼式に参加した感想(三回分)を掲載します。


私は10年前に統一教会を知り、文先生を知りましたけれど、
その時は色々な事情もあって、途中で学ぶことをやめてしまいました。

今回、再び学ぶ機会を与えられて、
祈願書を通した還元祈願礼式に参加できるようになりました。

還元祈願礼式を行う部屋は、文先生ご夫妻の真尊影が掲げられていますが
「今まで休んでしまった」という負債感もあり、
ご夫妻のお顔を直視できず頭を伏せてしまいました。

しかし今日、還元祈願礼式参加して座った時にふと、
ご夫妻の真尊影を見つめたところ、ご夫妻が私を見つめて、
にこやかで温かい笑顔を下さったのです。

私はとても驚くと同時に、何故か“ほっ”と癒され、
嬉しく満たされた気持ちになりました。
これからはしっかりと学んでいきます。


還元祈願礼式の為に部屋に入ると、
文先生ご夫妻の真尊影をしっかり見つめてご挨拶ができるようになりました。

そして、心の中で「私は本当に手のかかる子ですね。
文先生が天国へ行かれて3年目だと伺いましたが、縁あってまた戻ってきました。
手のかかる私ですが、頑張りますのでこれから宜しくお願いします」とお伝えしました。

すると文先生の口元が動いてニッコリされ、奥様も優しく微笑んで下さり、
耳元のイヤリングがユラっと揺れたのを見ました。

いつも見ていて下さり、励ましてくださっているのだと感じて、
とても温かい気持ちになり頑張ろうと思いました。


昨夜、些細なことで夫と口喧嘩になりました。
私の事を思っての言葉であるのはわかったのですが
「そんな言い方しなくても・・・」と口論になりました。

勉強をしているのでいけないとわかっているのに止められない事に落ち込み、
「私は本当にこの夫を愛して結婚したのだろうか?」と思いました。
この思いは、夫と時折意見が合わなくなると出てきます。

今朝は、祈願礼式にはその思いを引きずったままの参加となりました。
文先生ご夫妻の真尊影を見つめていると、
以前学んだ時に文先生と奥様の年齢は
とても離れているのを教えて頂いたのを思い出しました。

思わず奥様に「年齢の離れた方とご結婚なさって、日々の生活の中でいつも愛せる、
信頼できると思えたのですか?」と問いかけていました。

すると奥様は「お互いの苦労は違います。
だからこそ相手の苦労を思いやる心を持つ事、
お互いを慰労する心で見つめて愛するのですよ。
あなたも良き妻であり、お子さんの前でも良き母でありなさい」
と優しく諭すように語って下さいました。

いつもの穏やかな眼差しでとても身近に来られて
心が溶けるような感じで包んで下さいました。

愛で心がいっぱいになるように頑張りたい。
このご夫妻のようにと思いながらいこうと思いました。



み言を学んでいる段階の方ですが、
とても霊的に敏感な方だと思います。
霊的にわかるわからないは別にしても、
ご父母様は私たちに働きかけようとしておられるのでしょう。

また、私たちももう一度、真尊影を貴重視し、
家庭祭壇を霊的中心に置かないといけないと思わされます。

家庭祭壇が、その家の霊的中心となり、
先祖が守ってくれるのです。

お父様のみ言を紹介して終わります。




今日以後、皆さんは先生の写真を
持ち歩くのがいいでしょう。
そうすればどんな苦難に遭うとしても
無事に耐えられるように
保護してもらえるでしょう。

モーセがイスラエル民族を
エジプトのパロの元から脱出させ、
カナンへ導くために奇跡を行うとき、
長子が艱難に遭い
病気になって死にましたが、
羊の血を門に塗った家は、
その艱難がみな避けていったのです。

霊界は私たち人間のすべての
行動を見ることができるだけでなく、
保護してくれたりもするのです。

(礼拝と儀式より)



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2016年05月12日

今日は回答編! ホントのやる気を引き出す方法?! 《家庭力up↑講座》






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多田部長の『家庭力アップ講座』
昨日の続きになります。



「人に為に生きる」喜びを教える

もし、親が子供に対して、「人のために生きる」喜びを体験することができれば、
言って聞かせる必要がありません。
自分の心の中から、湧きいずる自発的な行為として、
「人のために生きる」ようになるのです。

そうすれば子供は自然と人に親切にするようになります。
もちろん家庭の中で、両親や兄弟など家族構成員に対して、
奉仕を喜んでするようになるでしょう。


ところで、私たち親が「家族のために」と思えるのはどんな時でしょうか? 
一度考えてみましょう。

たいていは、「家族の幸福のため」にと考えて
「家族のために……」と思えるのではないでしょうか。
「家族を楽にしてあげたい」とか「子供の寝顔がうれしい」とか考えて、
家族のために生きようとします。

親は、言われて家族のために生きようとするのではなく、
自発的にしてあげたくて、「家族のために」生きようとするのではないでしょうか。

そもそも、本来人間は、「人のために生きたい」と心の中では、願っているのです。
そもそも、神様が、人間や自然界を
「お互いにために生きあう」ようにおつくりになられているのです。

もちろん、自然界は、自覚なしにお互いのために生きあっているわけですが、
神様から与えられた生涯を必死で生きることが
ために生きることになっているのでしょう。

では、どのようにしたら、「人のために生きる」ことを教えることができるのでしょうか。


第一に、子供に、親の役に立ってもらうことから始めましょう。

そして、子供が親のために生きてくれたなら、親は感謝して、喜んであげるのです。
「ありがとう」とか「助かったよ」とか「ああ、うれしかった」などと、
感謝の気持ちを素直に子供の前で表現するのです。

そうすれば、子供の「ために生きる」行動が、
親によい影響を与えていることを子供が自覚することができるようになります。
ですから、子供の「ために生きる」行為に対して、
親の気持ちをいかにして言葉を豊かに子供に伝えることができるのかが大切です。

親の感謝の心を表現することを通して、
子供の心の中に「人のために生きる喜び」の種を植えることができるのです。


例えば、子供が新聞をとってきてくれた時に、
「ありがとう。お父さんね、起きてすぐに新聞を読めるから嬉しいな」
と親の気持ちを素直に子供に伝えると、
子供に「人のために生きる」喜びを感じさせたあげることができるのです。

また、お母さんが食事に準備をしている時に、子供がお茶碗を並べてくれた時に、
「お母さんね、この時間とても忙しくてね、あなたがいてくれるから助かるわ」

このように、親が子供の行動に触れて、どのように喜んでいるか、
感謝しているかを素直に伝えることによって、
親の手伝いをしたことが、親に肯定的な影響を与えていることを
子供は次第に、知るようになります。

そうして、子供は「人のために生きる」喜びに触れるようになり、
心の中から自発的に主体的に「人のために生きること」を実践し始めるのです。


第二に、親と子供が、それぞれの心を共感した時に、
子供は「人のために生きる」喜びを感じていくのです。
子供が共鳴し共感して、子供自らがために行きたくなるのは、
親の素直な気持ちを聞かされた時なのです。
ですから、親の気持ちを言葉で表し、自分の気持ちを子供と分かち合うとき、
子供は共鳴共感するのです。


一つの例題を紹介します。

「母親の話」⇒「家では、全く親の手伝いをしない子なのに、
学校では先生から、お宅のお子さんは『率先していろいろと手伝ってくれる生徒』と、
母親が褒められたのです。

その原因は学校の先生だったのです。
先生は、子供たちひとりひとりに感謝して、喜びを伝える人だったのです。

それで母親は、家庭でも先生と同じことを始めたのです」
先生が、子供たちの気持ちを共鳴し共感してくれることによって、
自発的に「人のために生きる」喜びを感じて、行動をはじめて行ったのです。


「手伝ってくれて本当にありがとう。あなたが手伝ってくれるおかげで、
母さんはとても助かっているよ」と、親の気持ちを素直に表現して行くことによって、
子供に「人のために生きる」喜びを感じさせてあげることができるのです。

「感謝」や「共感」の中だけ、子供に大切なことを、伝えることができるのです。 



たまたま、一昨日、三男に夕食の準備を手伝ってもらいました。
「〇〇君が手伝ってくれたから、お母さんが助かったって!」
そのように言うと、まんざらでもなさそうな様子でした。

しかし、昨日は、食事ができるまで、何を言っても来る気配なし。。。
好きなゲームに夢中になっていたようです。

毎日、やってもらうのは、難しいとしても、
定期的に、順番を決めるとか、何か考えてみようかと思っています。

『ために生きる喜び』は子供だけでなく、
私たち、大人も当然するべきことです。
何よりも、真の父母様がそのような精神で歩んでこられたし、
宇宙の原理原則がそのようになっているからです。

親が率先して、ために生きながら、
後姿を見ていけるように、
そして、共感・共有できるように
心がけていきたいと思います。

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2016年05月11日

叱る? ほめる? ホントのやる気を引き出す方法?! 《家庭力up↑講座》



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多田部長の家庭力アップ講座
今日は、「『人のために生きる喜び』を教える」より
「褒めて育てること」と「叱って育てること」です。


私たち親は、子供のやる気を引き出そうとするときに、
どのように接したらいいか分からなくて悩んでしまうことがあります。

そんな時に、子供を「褒めること」を通してやる気を引き出そうとしたり、
時には「叱ること」を通して、
または「ものやお金をあげる」ことでやる気を引き出そうとしたりします。

この三つは、どれも子供に対する外からの働きかけで、
子供のやる気を引き出そうとするものです。
それぞれの事情の中での子供への働きかけですから、
それなりの効果があると思います。

ここではどうしたら、子供の本当のやる気を引き出すことが
できるかを考えてみたいと思います。

本当のやる気というのは、子供自身の中から湧いてくるものであれば、
環境にかかわらず子供のやる気は継続していくことになるでしょう。



褒めて育てることについて


一つの例を通して、「褒めて育てる」ことを考えてみたいと思います。

例えば、「A君は、とてもいい子で、
よくゴミを拾ってくれたり、先生の手伝いをします。
しかし、やり方が気になるのです。
先生が見ていると確認してからゴミを拾い、
先生の視線を意識しながらゴミ箱にゴミを捨てます。
そして、先生のところに来て『ねえ先生、ぼくえらい?』と聞きます。
かなり頻繁に聞くのです」

このAくんは何かをして、褒められた時に、愛されたと感じているのです。
ですから、褒められないと愛を感じず、
奉仕の実践ができにくくなってしまっています。

褒められることよりも、A君を認めてあげることが必要ではないでしょうか。
認めて、必要としてあげて、感謝してあげること。
ですから、Aくんにとって必要なのは、
「個性真理体」として認めてくれる家庭が必要なのです。


褒め言葉を、行動を起こす動機づけにすると、
子供は、「褒めてもらうために行動を起こす」
ようになってしまう可能性があります。

ですから「褒めてくれる人がないと、やる気が起きない」となってしまいます。
ですから「褒めてもらわないと傷ついて前進できなくなる」のです。

つまり、他の人によって自分の価値を決める、自信のない人」になってしまいます。
ですから、その子供は「個性真理体」の自覚が育ちにくくなるのです。



叱って育てること


叱られたり、脅されたりした子供は、おびえ、
その不安を解消するために親の言うとおりに行動するのです。

「叱る」というのは、躾ではないのです。
脅しという罰を使った支配になってしまいます。
それは、害こそあれ、何もいいことはありません。

親が叱る理由を考えてみると、親の思い通りにならないので、
腹を立てて叱っていることがあります。
そうすれば、子供は、「怒られない」ために行動してしまいます。

そして、親に腹を立てながら行動していることになります。
それは、子供に人を憎むことを教えていることになってしまいます。


一度、自分が何に腹を立てているかを見つめ直してみましょう。

私たち親の心の中に「子供に対して『〜するべきだ』
という考え方がないだろうか」と問いかけてみてください。

親が、子供に対して、「〜べき」が腹を立てているのです。
ですから、親の心の中の「〜べき」は、本当に正しいかどうか振り返ってみましょう。

正しく判断して、それが理にかなっているならばそれを子供に教えてあげましょう。
しかし、理にかなっていなければ、子供に押し付けないようにしましょう。



「褒める」ことと「叱る」こと。
ただ褒めて、叱るだけでは、
本当のやる気を起こすのではないと思います。

ただそこに本当の愛情、成長を願っているものであれば、違うような気もします。
褒めるにしても、良いところを引き出すように褒めることもできるだろうし、
また、叱るにしても、自分の感情だけで怒っているのではなく、
本当にその子のために、叱っているのなら、
その感情が子供にも伝わるのかな、とも思います。

いずれにせよ、それ以上に重要なのが
ために生きる喜びを教えてあげることなのです。
少し長くなりましたので、明日に続きます。



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