2016年05月07日

神様の次に感謝すべき人は?! 誰かの犠牲の上で、今の私たちがある!! 《金元弼先生》



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名医とは、
たくさんの人を
犠牲にしたということが前提になる。

勝利の栄光は、
まず第一に神に帰し、
次に犠牲となった人たちに
全部返さなければいけません



金元弼(ウォンピル)先生の『伝統の源流』
今回は、「犠牲の上にある今の私」です。
少し長いのですが、読みやすいので、全文掲載します。


皆さん、先生のことを考えてみましょう。

韓国の元老の牧師さんたちが、先生を訪れました。
その時、先生は彼らに、
「実を言えば、あなたと私は敵です。
あなたは私に反対して、韓国から追い出そうとしました」
とお話ししました。


ヤコブには十二人の息子がありましたが、
十一人の兄弟はヨセフを殺そうとして追い出しました。
ところが殺されようとしたヨセフが総理大臣となってから、
彼らはヨセフの所へ来て謝りました。
ヨセフは、自分を殺したのと同じ立場のその兄弟を許しました。

なぜ許すことができたのでしょうか。
それはヨセフが親に侍らなければいけないはずなのに、
彼がいない時に、兄たちが侍ってくれたというところを見て許したのです。


ユダヤ教とかキリスト教が、先生に反対しました。
それと同じです。

しかし、先生はどのようにして愛する心をもたれたのでしょうか。

統一教会をなくそう、滅ぼそうとし、
先生を追い出そうとしたことは、許されるものではないのですが、
6000年の歴史を通じて、ユダヤ教とキリスト教が
神を支えてこなかったならば、どうなっていただろうかと考えるときに、
許すことができるというのです。


ですから自分を中心としないで、あくまでも神を中心としてこそ、
許しの心が出てくるのです。

ただ漠然と、「愛さなければいけない、愛さなければいけない」
というのでは駄目なのです。

「なぜ兄弟を愛さなければいけないのか」
「なぜ人々を愛していかなければいけないのか」
そういう心をもたないと、許しの心をもつことはできないのです。


皆さんが、過去を振り返って
「私はたくさんのことを習い、悟りました」と言えるようになるまでには、
それぐらいたくさんの人を傷つけたお陰だということを忘れてはなりません。

もし、先生が私の代わりにチームを指導したならば、
あのようにしなかったはずなのに、と考えるだろうと思います。
それはいいことです。


これをもっと分かりやすく、印象的にするために、名医の話をしましょう。

ある人が医学大学を卒業しました。
彼はお医者さんになって患者を診るようになり、
学校で習ったとおりに人を診断し、治し始めました。
最初はよく分からないところがあって、学校で習ったとおりにやりました。
ところがかえって効果がなく、患者は非常に苦しみました。
それでもう一つのことを試みましたけれども、また駄目でした。

このようにして彼は、いろいろな経験を積みました。
それから後は、人をよく診断して治すようになったのです。
それで彼は、名医と呼ばれるようになりました。

名医とは、たくさんの人を犠牲にしたということが前提になるのです。
お分かりですか。

名医になった人は、まず誰に感謝しなければいけないのでしょうか。
自分でしょうか、自分を教えた先生でしょうか。
もちろん、そうでしょう。

しかしそれよりも前に、自分のために犠牲になったたくさんの人たちに、
感謝の気持ちを返さなければいけません。
悟るとは、人を犠牲にしてできるものなのです。


夫婦の関係も同じです。
私が相手を愛するようになったということは、
相手をたくさん苦しめたお陰なのです。

愛さなければいけないと悟ったということは、
過去には愛せなかったということです。
愛せなかったということは、相手を苦しめたということです。

星がたくさん付いている将軍が偉いのですか、
何も付いていない兵卒が偉いのですか。

星がたくさん付いているということは、
たくさんの部下を殺したということと同じです。

ですから戦争に勝った将軍は、第一に誰を訪ねますか。
空のように高い位の将軍でも、一番下の兵卒に頭を下げます。
それは、その人たちの死によって、勝利がもたらされたからです。
その星は、彼のものではなく、その人たちのものなのです。


ですから、勝利の栄光は、まず第一に神に帰し、
次にその人たちに全部返さなければいけません。

それを自分や自分の家庭に返したら大変です。
自分や自分の家には、その人たちが返してくれるのです。

皆さんが、色々習った、あるいは悟ったというときには、
自分で悟った、自分で習ったというのではなく、
犠牲になったメンバーによって習うことができた、
ということを忘れてはいけません。

足らないリーダーなのに、ほいほいと待ったのは、
リーダーが好きだからではなく、神の啓示があると思ったからです。

だから、何かを習ったときには、まず神に感謝をし、
メンバーに全部返さなければなりません。
問題児だという人に返さなければいけないのです。


そうしないと、どういうことが起こるでしょうか。

メンバーは皆様を尊敬しませんし、恐る恐る仕えるでしょう。
そういう人を通じては何もできません。

主体と対象の授受作用ができません。
そこには神が運行せず、何も繁殖せず、悪の循環でしかなくなるのです。


例えば、「水を持ってきてください」と言って頼んだとしましょう。
そのリーダーが嫌いなのに、それは命令だから従わなければいけない
という気持ちだったら、喜んで行くでしょうか、顔をしかめて行くでしょうか。

また、コップにごみが付いているのを見て、心の調子が良い時には、
「私のリーダーがこれを飲んだら病気にかかってしまう」
と言って全部ふき取ります。
それを飲んだら体が良くなるでしょうか、良くならないでしょうか。

しかし、命令だからと思って、寂しい心が水に混じって
一緒に入っていたら、いいはずがないですね。
愛を込めた水と心情を込めた水を飲んだらどうでしょうか。
皆様が霊的に明るくなれば、それが分かります。


握手にしても、友達と握手をする場合に、
嫌な人と握手しなければならなくて仕方なく握手する時と、
本当に愛する人と握手する時と、形はみな同じですけれども、内容が違います。

同じように目を見ても、本当に哀れんで見るのと、憎い心で見るのと全然違います。
だから皆様が、本当に愛してメンバーや兄弟に対しているのかということは、
その目を見たら分かるのです。



今も自分の姿を見れば、足りないと思うのですが、
もっと若いときのことを考えると、
「あの時、このように話していれば・・・
こういう風に、講義をしていれば・・・」
そんな悔いが多く出てきます。

ですから、金元弼先生の語られるように、
昔出会った人たちに感謝の念を捧げたいと思いました。

そして、何よりも人間関係においては、
神様を先立てて考えることが何よりも重要だと感じます。
日々、心がけないといけないですね。。。


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posted by ten1ko2 at 06:24 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする