2016年06月30日

(証し) 外交官、朴普煕として渡米!! お父様の指示と、特別な祝福とは?!



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あなたが決めるのではなく、
天のみ旨に従うのです。
何も失うことはない。
天命に任せて、人事を尽くしなさい



私たちの知っている朴普煕(パク ポウヒ)先生は、
米国での3大大会でも素晴らしい通訳を務められ、
いろんなシーンで常にお父様の傍らで
支えられていました。

若き陸軍将校だった朴先生が
更に、ご父母様の片腕として活躍していく
きっかけとなったエピソードです。


一九六一年、ワシントンDCにある韓国大使館に、
陸軍武官の補佐官として外交官の任務が設けられました。
そこに志願をする人が百人もいました。
その中には、大学で英文学を専門に学んだ人、
通訳の将校として長い間働いた人がずらりと並んでいました。

陸軍士官学校から上がってきた私は、歩兵将校で通訳将校ではありません。
だから、その人たちと競争して合格することは不可能なことで、
ただ一つしかない武官の補佐官に就くということを、
私は最初から考えてもいませんでした。


そのことをお父様に申し上げたら、

「あなたが決めるのではなく、天のみ旨に従うのです。
できるかできないかは天に任せなさい。
神様があなたを必要とするなら、あなたは行くようになる。
そうでなければ、残るようになる。
何も失うことはない。
だから天命に任せて、人事を尽くしなさい」

と言われました。


その時私の「人事を尽くして天命を待つ」
という信仰の姿勢が生まれてきました。
人生において、私はいつも「人事を尽くして天命を待つ」です。

お父様が言われるとおりだと思って、私は志願書を出しました。
試験は英語だけでなく、軍隊の将校として必要なものを含め八科目でした。
一科目から八科目まで熱心に受け、天命を待ちました。
その中でも論文は、原理を学んだ立場ですから、
最高の論文を書いたのではないかと思います。

とにかく、お父様の言われたごとく、
全力を尽くしたので私の使命は終わったと思いました。
そしたら一週間後に、陸軍参謀総長から呼び出しがあり、
合格を通知されたのです。


そして一九六一年三月一日、渡米する日の早朝、
私と家内はご父母様にあいさつに行きました。

その時、ご父母様は私たちを三十六家庭として選んでくださいました。
祝福式は五月十五日に予定されていましたが、
渡米してしまう私たちに対し、
特別に祝福の祝祷をしてくださったのです。

その時、お母様は譽進様をお生みになられて、静養中でした。
お母様が動けないので、お父様は私たちを
お母様の部屋に連れていかれました。

そこでご父母様は共に手を上げて祈られ、
私と妻の頭の上に手をおいて、三十六家庭として祝福されたのです。
そしてその日の朝十一時の飛行機でアメリカに渡りました。
お父様は空港にまで、見送りに来てくださっていました。

特別祝福を頂いて、お父様が直接飛行場まで見送ってくださった、
これが、私の生涯最大の栄光です。



「人事を尽くして天命を待つ」
朴先生の人生において、座右の銘となるこの言葉は、
何よりも真のお父様ご自身が実践されたに違いありません。

それは、お父様が解明された
「責任分担」に通じる言葉だと思います。

そのみ言を信じ、実践された朴先生は、
見事にアメリカの外交官として出発していきました。
このことは、お父様がアメリカ開拓を成すにおいて、
重要な役割を果たすことになります。

明日のお楽しみ・・・



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posted by ten1ko2 at 10:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月29日

(証し) 青年将校、朴普煕、伝道される!! お父様との出会いは?!


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真のお母様が四大聖物を下賜してくださったのが、
ご聖婚56周年記念式でのことでした。

その時、元老食口の証しの一人として、
朴普煕先生が証しをされました。

「とても懐かしいなぁ」と思いつつ、
朴先生の導かれた証しを知りたいな、と思いました。
ちょうど、「めざそう!天国家庭」という本に掲載されていましたので、
何度かに分けて、紹介させていただきます。

朴普煕先生が伝道されたのは、梨花女子大事件の2年後
韓国中に統一教会のデマが広がっていた頃です。
日本の伝道は始まってもいませんでした。


一九五七年の二月、私はソウルで陸軍将校として、
アメリカの将軍に仕えていました。
その時、駐韓米軍の司令部で働いておられた
金永雲先生に伝道されました。

入教して四十年が過ぎました。

み言葉に接した時に、私は
「この内容が正しいだろうか。学者にも尋ねてみよう」とか
「評判がどういうものか」という考えが、全くありませんでした。

統一教会と全然知らないで、講義に招かれた夜に
「統一原理」の前編を聞いたのですが、
素晴らしいみ言葉に感動の至りでした。


私は、日本の支配下から一九四五年の解放、独立、
そして韓国動乱を体験してきました。
韓国動乱の時は陸軍士官学校の生徒として、
動乱勃発一日目から戦場で戦いました。

そういう人生を通じて、
九死に一生を得たことが一度だけではありません。

二十一歳の時から血まみれの戦場で生き延びながら、
「人生とは何か」「神様はいらっしゃるのか」
「本当の生き方はどういうものか」「死後に何があるのか」
ということに対して、「本当の信仰をもたなければならない」
と思うようになりました。

それであちこちの教会にも行ってみたり、
説教を聞き、聖書を読んだりしながら、
私なりに正しい道を探そうと、さまよい、
死に物狂いで努力をしてきました。


それで原理を聞いたその瞬間から、
「私が生きる道はこれだ!」と悟りました。
「私が行くべき道にようやく導いてくださった」と、
神様に感謝をささげました。

教会の名前は何でもいい、教会はどこにあってもいい、
いくらみすぼらしくても問題ないと思ったのです。
この真理こそ私が求めてきた真理でした。


翌日の夜、金永雲先生が私一人のために
特別に後編の講義をしてくださるというので、
その夜は興奮して家に帰りました。

ところが、翌日、出発の準備をして夕食を食べている間に、
ご飯がのどを通らないくらい大変な熱が出てきました。
七時が約束でしたが、目まいがするし、
熱が四〇度ぐらいに上がり、もうどうにもなりません。
それでご飯を食べず、妻が準備した寝床にそのまま倒れ込みました。

時計を見ると、七時半になっています。
金永雲先生が私を待っていることを考えると申し訳ないのですが、
あの時は電話もないので、連絡もできません。
妻が「このような状態では絶対に行かないでください」
というのを振り切り、車を呼んで、約束の場所に行きました。

約束どおり金永雲先生の後編の講義が始まりましたが、
私は苦しくて何を聞いているのか全然頭に入りません。
毛布をかけてぶるぶる震えながら、我慢して二時間ほど聞きました。

しかし、朦朧としながらも、韓国にメシヤが現れるという結論で終わった時、
私は何とも言えない興奮を感じました。

そして「またもう一回会いましょう」と別れるその瞬間、
今まで頭が割れるほど痛かったのが、すっきりとして、
いつ私が病気だったのかと思われるほど完全によくなりました。

その後三時間、金永雲先生と会話を交わした感動は、今でも忘れられません。


その時、私はまだ統一教会の名前も聞いていませんでした。
「どこの教会ですか」と言っても、教えてくれません。
金永雲先生はにこにこ笑いながら、
「そんなに急がなくてもよろしゅうございます」と言ってなだめるのです。

私がこんなにも興奮して、早く教会につながりたいと思っているのに、
なぜこう金永雲先生は躊躇するのかと不思議に思いました。
仕方なく家に帰りましたが、その夜はうれしくて一睡もできませんでした。



真のお父様との出会い


翌日、陸軍少佐の私は、部下に
「金永雲先生の教会がどこなのか調べなさい」と命令しました。
それが「統一教会」だということと、
教会は青坡洞にあるということが分かりました。
そして水曜日、軍服を着た私は青坡洞に一人で現れたのです。

しかし道がよく分からないし、看板もありません。
それで近くの店の人に、「統一教会はどこか分かりますか」と聞いたら、
「ああ、統一教会ですか」と、
じろりじろりと見ながら教えてくれました。

「向こうを回って角を曲がったら小さな入り口があります。
そこを行って、右に曲がったら小さな門がありますから、
その門を押して入りなさい」と言うのです。

昔は入り口がなく、看板もありませんでした。
そのとおりに行ってみると、旧本部教会がありました。


その夜、初めて統一教会の礼拝に参加しました。

二月で大変寒く、ストーブはあっても火はついていません。
五、六十人の若者たちが、ひざまずいて座って、聖歌を歌っていました。
若者の聖歌の歌声は心霊に深い感動を与えてくれました。
私は一番前に座って、説教を聞いたのです。

説教が終わると、私のそばに座っていて質素な軍人の
ジャンパーを着ていた方が立ち上がって、み言葉を語り始めました。

「この若いお方はだれだろうか。眼光が鋭く、
あまりにも威厳がある」と思いました。
その時、礼拝堂の後ろのいすに座っておられた
劉孝元先生が教会の責任者だと、私は思っていました。


礼拝が終わると、金永雲先生は笑顔で握手をしてくれました。
そして「どうやって来たのですか」と言うのです。

それで「案内がなくても、私は情報将校だから、
そのぐらいのことはすぐ分かります。
『また来てください』と言ってくださるのが待てなくて、
自分で探してやってきました」と私は答えました。

すると金永雲先生は「あなたは特別です。先生にご紹介しましょう」
と言って、私をお父様の所へ連れていってくれました。
そこでごあいさつをした方がお父様で、
先ほど私の前でみ言葉を語られた質素な方だったのです。

お父様は力強い握手で、「あなたの話は金永雲先生からよく聞いていました。
部屋に入りましょう」とおっしゃいました。
それが、私とお父様との出会いです。


その日からできるだけ、私は教会に時間を費やしました。
昼は軍人として勤務し、夜は毎晩教会に行って、お父様のみ言葉を聞きました。
朝も早く教会に行って、五時のお祈りをして、教会の掃除をしました。

というのは、私は肩には将校の階級章がついていましたが、
統一教会から見たら二等兵だったからです。

私は毎朝、教会の便所掃除をしました。
それから礼拝堂を掃いて水拭きしました。
外に出たら将校、中に入ったら二等兵という気持ちで、
教会の掃除をするのが、当時の楽しみでした。



朴先生の霊の親は、
アメリカ開拓をされた金永雲先生でした。

青年将校だった朴先生を導いたのですから、
凄まじい精誠の元、伝道されたのだと思います。

また、朴先生ご自身も
「真理に出会った!」その揺るぎない一点において、
迫害を受けていたであろう、統一教会に出会い、
み旨の道に邁進していかれたのです。

明日に続きます。


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2016年06月28日

若者よ!! 日本の希望の実体、「天一国青年宣教師」に続け?! 《徳野会長》


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「次の宣教地は日本であります!」



昨日は、徳野会長が自ら伝道の証をし、
伝道推進本部長であると宣言された内容を紹介しましたが、
三本柱のうち、真っ先に語られた最初の柱を紹介します。
(第2の柱は省略します)

それは、一番の関心事、一番の希望である
青年たちに語られたメッセージであるともいえます。


第1の柱は「天一国青年宣教師」の活躍です。

先日、宮崎台国際研修センターでの
第3次天一国青年宣教師の修了式に参加した際、
2人の宣教師の証にとても感動しました。


1人は男性宣教師で、インドやネパールでの宣教活動を通して、
2人の霊の子女を天から与えられました。

彼は、その過程の中で、父母の心情を体験し、また
生死を掛けざるを得ないような危険な命からがらの環境の中で
宣教活動を成しながら、天の父母様(神様)のご苦労
そして、文字通り命懸けの人生を歩んで来られた真のご父母様の
その心情・事情、血と汗と涙のご苦労、
そして、先輩たち両親たちの、伝道のために苦労してきた
開拓のために苦労してきた世界を体験できたというものでした。


もう1人の女性宣教師は、香港とドミニカ共和国で伝道活動を行い、
最終的に5人の霊の子女を与えられました。

彼女が宣教師として出発する時には、様々な不安もあり
自らの内面の心情の世界を考えると、まさに「娘」でしかなかったが、
霊の子女を与えられて、自らが父母心情を体験する中で、
心情の実感として、娘から「姉」へ、
そして「母」になる、そのような
心情的な貴重な体験することができたという
これも極めて感動的な素晴らしい証しでありました。


私自身、米国やアフリカ、旧ソ連、中国などで、
約7年間、宣教活動を体験してきましたので、
天一国青年宣教師たちから見れば、海外宣教活動の先輩の一人です。

確かに外国はいろんな苦労があります。
マラリアの脅威や食生活における様々な苦労もあります。
クーデターがあったりギャングに襲われたり、
治安の悪さも日本では想像もできないほどです。
様々な危険のさなかで展開するのが
現実の海外での宣教活動であります。

そのような苦労は、私も体験者として理解できるのですが、
いよいよ宣教を終えて、母国日本に帰ってきた青年宣教師たちに
修了式で、私はあえてはっきりと、次のような激励の言葉を語らせて頂きました。


「次の宣教地は、日本である」と。

「日本は、確かに安全な国であり、清潔な国であり、
皆さんの母国であるがゆえに言葉も通じる文化も通じる、
生活習慣も誰よりも知っている、
しかし逆に、緊張感がなくなったり、マンネリ化したり、
あるいは昔の悪い習慣性に戻ってしまうおそれがあります。

海外は危険性があるがゆえに緊張するし
自分でも感心するくらいに立派な自己主管の生活ができていた。
でも、日本に帰ることによって安心して、習慣的な惰性の中で
信仰生活に張りがなくなったりしやすいのです。

でも改めて、今度の任地国は日本という、内的に見れば最も困難な
最も手ごわい、最もマンネリ化しやすい、習慣化しやすい
ついつい自分を甘やかしてしまう恐れがある任地国といえます。

二世圏の希望の実体となってほしいと思います」
このように激励しました。


事実、全国の青年学生、2世圏の伝道活動や振興活動の中で
この青年宣教師たちが、先頭を切って街頭伝道し、友人伝道し
頑張っているという話をよく聞きます。

この天一国青年宣教師こそ、今の日本の希望の実体であります。

今後天一国青年宣教師たちが、皆さんの教会にも派遣されていくと思いますが、
どうか彼らの歩み、彼らの姿勢、彼らの決意、
彼らのみ旨・伝道に向かう姿に刺激を受けながら、
他の2世圏も頑張って頂きたいと思います。


プロシアの鉄血宰相ビスマルクが
「その国の未来を見たければ その国の青年を見よ」
と言いましたが、
日本の未来は青年たちの姿にかかっていることは言うまでもありません。

その意味で家庭連合、統一運動における未来の運命を担っている
青年・学生、若者たちが、天一国青年宣教師に負けない
燃えるような情熱と決意をもって、活動に邁進して頂きたい。

そして、天の願いである、神側のアベル陣営における
10万人の青年学生基盤を作ってほしいと、
強くお願いしたいと思う次第であります。

u-oneニュースの内容をまとめました
文責:ten1ko2

宣教師たちのうち、3月に学生を中心に約半数が帰国しましたが
6月現地に残っていた宣教師が帰国して、
今回の出発式(修練会)になったそうです。

修練会の感想です。


『この修練会中ずっと講義や証しが終わるたびに
胸がいっぱいになり、祈祷室に
行かずにはいられない自分がいました。
どの講義も愛に溢れていて、
また天の願いをひしひしと感じて、
とてもじゃないけれど
自分一人では消化することはできませんでした。
祈祷室に行き、天に対して正直に祈りました』


『一年間という宣教期間は私にとって
かけがえのない宝物です。
この一年間を通して感じたことを
私は必ずこの日本で実を結ばせていきます。
そして日本での勝利が
台湾での勝利につながるように、
どんな歩みでも感謝して前進していきます。
伝道路程、必ず勝利していきます!!』



とても、力強い、決意ですね。。。
これから首都圏を中心に全国10か所で
『日本の宣教師』として活動するとのこと。

うちの教会の教会長の口癖の一つが
「私たちは、宣教師だ!」というものです。
日本、あるいは世界を伝道の任地とし、神氏族メシヤの使命を与えられた
一人一人が、天の宣教師です。

若い天一国青年宣教師たちが
海外での貴い歩みを土台として、
大きな実りを得ることを期待しつつ、
私たちも刺激を受けて、頑張っていきます!


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