2016年06月24日

つまらない大人にはなりたくない?! 親のようになりたくない?! 《家庭力UP↑講座》



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多田部長の「家庭力アップ講座」
昨日の続きになります。



親が一生懸命に努力する姿を見せる


親は、子供が目標をもち、やる気をもって努力してほしいと願います。
しかし、子供はなかなか親が願うようにしようとしません。

親の言うことが、たとえ正しいとしても、口先だけの言葉として感じていたら、
子供は決して親の願うようには行動しないものです。

「子供は親の背中を見て育つ」と言います。

親の言うことを聞いて、そのとおりにするというよりも、
親がしていることを見て、そのとおりにするということです。

親の愛を感じたとき、親を尊敬し始めたとき、
子供は親の生活をまねしようとするものです。


ですから、子供に対して信仰生活を押しつけるのではなく、
親が信仰生活を見せることが大切です。

親の生活を見て育った子供に、
「親のようにはなりたくない」と思われていては、
信仰を相続させることはとても難しいでしょう。

子供自身にその気持ちがないのに、
親がさせようとするところに溝ができるのです。
まずは親自身が、自分の信仰生活を確立することが大事です。

たとえ子供が一緒にしなくても、安侍日の敬礼式を守り、訓読会をするのです。
神様に対する親の真摯な姿勢、
み言を学び大切にする親の姿勢を子供は見ているものです。

ひたむきに生きる親の姿を通して、子供は親の愛を感じ取っていくのです。
一生懸命に歩む親の姿、親の努力自体が子育てなのです。


次のような文鮮明先生のみ言があります。

「父母が直接教えてくれるのではなく、
学校で学ぶのでもありません。
子女のために献身的に真の愛の一生を生きていく
父母の姿を見て体得し、
悟るのが子女の心情です」

(『後天時代の生活信仰』83頁



共感し合う親子関係に

子供と信頼関係を結ぶことは、一朝一夕ではできません。

夫婦が一つになるためには、お互いに譲り合ったり、
認め合ったりと、さまざまな努力が必要です。
そのことは誰もが知っていることです。

それと同じように、親子の信頼関係も、自動的にできるわけではなく、
日々の積み重ねによって築かれていくものなのです。


天の父母様(神様)は一人一人をご自身の子女として創造なさいました。
夫は神の子であり、妻も神の子です。
そして、子供も神の子なのです。

理解し合うためには、努力が必要です。

子供の気持ちに、親は共感しているでしょうか。
親の気持ちに、子供が共感しているでしょうか。

共感できてこそ理解することができるのです。
いつも、そのことを確認するようにしましょう。



先日から再開した「家族での祈祷会」。
ささやかではありますが、今も継続しています。

最近は、「グーパー(グッパ)」をして、ペアになり、
お互いのために祈っています。

どんな風に祈っているのか、聞いてみると
「お兄ちゃんが部活頑張ってね、とか
お父さん、お仕事頑張ってね、って祈ってる」
いつも私が「アージュ」というと、
すぐさま「アージュ」と叫ぶ三男が、
そんなことを話してくれました。

彼なりにちゃんと祈っているんだな、
そんなことを思うと、胸が熱くなりました。。。

また、「お父さんとお母さんにして欲しくないことは?」
そう聞いてみると、みんな同じ答えが返ってきました。

それは・・・
「口げんかしないで欲しい」
やっぱり、親が喧嘩する姿を見せてはいけないですね。。。

逆に「じゃあ、お父さん、お母さんが仲良くしてたら?」
そう聞くと・・・
「あんまり、ラブラブになり過ぎたらやだけど」
そんな風に言われました(笑)

子供たちの見本となれるよう、
夫婦仲良く、御父母様の代身として、
見せてあげれるように日々努力しないといけないですね。


今回の、家庭力アップ講座は、
いったんこれで終了します。

多田部長の講座もどんどんグレードアップしていますし、
また、新しく情報が来れば、お伝えしますね。
ありがとうございました。



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2016年06月23日

もしも子供が「教会に行かない」と、言いだしたら?! 《家庭力UP↑講座》



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☆薫淑様親子 2.8(天1.1)


多田先生の家庭力アップ講座
今回は、価値観を伝える
第一回目は、「生活の中で親の価値観を伝える」です。


親には「子供は自分のものだ」という感覚があります。
特に日本人には強いようです。
「子供は親と同じような価値観をもつもの。もってくれるものだ」
という思い込みがあるのです。

そして親は、「子供は教会に通うべきだ。
礼拝に参加しなければいけない」と考えます。

ところが、子供はそのように考えてはいません。
「お父さん、お母さんはしたらいいけど、僕はやらないよ」
このように言われるかもしれません。
そうした場合、どうでしょうか。

子供の成長とともに、親から独立しようとする意欲、
つまり自立心が湧いてきます。
それは自然なことです。

特に思春期を迎えた子供には、
「親とは違っていたい、親を越えたい」
という気持ちが湧いてくるものです。

そのようなとき、親は「急に親の言うとおりにしなくなった。
子供の気持ちが分からなくなった」
とならないようにしなければなりません。


そのためには、親は普段から自分の気持ち、
考え方を子供に伝えておく必要があります。

親子間に特別に問題がないとき、
子供が何かの問題を抱えていないとき、
つまりリラックスしているときに大事な話をするのです。


私は時々、娘とハンバーガーショップに行きました。

そのとき、自分がどのようにして教会に導かれたのか、
信仰生活の中でどのような体験をして神様の愛を感じたのか、
祝福結婚を受ける前後の状況や祝福を受けたときの気持ち、
娘が生まれたときの喜びなど、
私にとって大事で娘に伝えておきたいことを話したものです。

娘が「お父さん、その話、もう5回目だよ」と言うと、
「いや、これは大事なことだからね。お父さん、
これからも話すから、覚悟しておいてよ」。

そのように何度も話したのです。
1回話したからよいというものではありません。
大事なことであれば、何度も繰り返し話してあげるのです。


何度も聞いているうちに、子供も、
親がどんな気持ちで信仰生活をしているのか、
何を願っているのかなど、
親の価値観を少しずつ理解していくようになるのです。

ただ理論や理屈で納得して理解するというのではなく、
親の気持ちに対する共感があってこそ、
子供が理解したと言えるのです。


そのようなこともなく、いきなり
「修練会に行きなさい」「祝福を受けなさい」では、
子供も受け入れることができないでしょう。

日々の生活の中で親の価値観を伝えておかなければ、
子供は共感することができません。

「原理が正しいのだから従いなさい」と言えば、
そのことに確信をもつことができず、
信頼をもてない子供にとっては裁きになってしまいます。



子供たちとはもっと深い授受作用が必要だな。
そんなことを最近感じます。

先日も、長男が家内のいうことを聞かずに
ある「買い物」をしてしまいまして。。。

こちらから見ると、「何で、そんなもの?」と思うのですが、
子供からすると、欲しくてたまらないわけです。
子供の嗜好を理解するのは難しいところですね。。。

しかし、しっかりと子供の目線を尊重するためにも
深い会話をしていかないといけないな。
そのように思うわけです。

共感できるように一対一の関係を意識して、
子供たちと接していきたいと思います。

明日に続きます。


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2016年06月22日

成功の落し穴、精誠の落し穴?!  ←「幸福」 or 「不幸」→ 3つの分岐点(後)


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☆国連グランプリ平和賞受賞
2000.6.23☆


阿部先生のweb説教
「幸と不幸の分岐点」後半です。


第二の分岐点は、「成功・恩恵」に直面した時です。

一見、成功したり、恵みを受けたりすることは嬉しいことであり、
楽しいことであり、幸せなことなので、
試練とは無縁のように考えがちです。

しかし、成功した時ほど気を付けなければなりません。

何事でも、成功した人は「傲慢」になる可能性があります。
必要以上に「自慢」したり、
成功できない人を「見下す」可能性もあります。

恵みを受けた瞬間は、嬉しくて有頂天になり、
周りの状況を冷静に判断できなくなったりします。

また、今までの努力が実って成功したので、
安堵の気持ちから油断して努力することを
やめてしまう瞬間にもなり易いものです。

また、安堵の気持ちから怠惰な生活に後退することもあります。


このような時ほど、「謙虚な心」が必要です。
さらに成長しようという「向上心」を忘れてはいけません。

成功しても、恵みを受けても
謙虚な姿勢を変えない人は、さらに成長します。

このように成功や恩恵を受けた瞬間もチャンスであり、
ピンチにもなり易いのです。


第三の分岐点は、「精誠・努力」が実らなかった時です。

何かの目標に向かって精誠を尽くし、努力することは大切なことです。
しかし、熱心に精誠を尽くした人ほど、
無意識のうちにその見返りを求めたくなるものです。

神様に精誠条件を立てるならば、「良き結果がもたらされるはずだ」、
「良き報いがあるはずだ」と、
自分なりにご利益を要求しがちになるということです。

もし、その結果が現れれば満足し、現れなければ
憤りの思いが出てくるかもしれません。


人間関係でも同じです。

ある人に尽くして、多くの支援をしてあげたとしましょう。
その時、無意識に相手からのお礼の言葉や
お返しなどの見返りを求めたりするものです。

その見返りが来なければ、相手に対する裁きの思いが湧いてきます。
さらには、怒りの思いが湧いて関係が悪くなることもあるでしょう。

自分は頑張っているのに、という自己正当化の思いも出てきます。

相手に尽くさなければそのような試練は来ません。
努力した時、精誠を尽くした時こそ、
試練が訪れることを知らなければなりません。


そのような時は、自分が受ける利益を捨てる姿勢が大切です。
それは「無私の心」です。
無私の心にこそ、神様が役事してくださいます。

人は誰もが「無私の愛・無償の愛」に触れた時、
感動と喜びを感じるものです。


そして、精誠や努力に対して、結果が現れなかったとしても
憤るのではなく、「変わらない心」「貫く心」で
さらに精誠と努力をし続けることが大切です。

その継続こそ幸福の原動力になります。


そして、精誠と努力をする時に、
「自己主張」はあってはいけないということです。

「人事を尽くし天命を待つ」という言葉があるように、
結果は天が決定してくださいます。
自分で評価したり、結果を決めたりしてはいけないということです。

人間関係でも、相手の幸せのために愛する実践を行ったのに、
いつの間にか自分の幸せの為に相手を利用したりする心に
変化している場合があります。

愛する実践は、あくまでも「無私の心」と
「変わらない心」が動機となって、
その愛を貫かなければなりません。


このように、「幸不幸の分岐点」として三つの観点で紹介しました。

これは人生の試練の瞬間であると同時に、飛躍のチャンスです。
目の前に起こる現状の良し悪しを安易に判断することなく、
まずは受け止めていきましょう。

私たちの人生に起こる全ての出来事は無意味なもの、
不必要なものはないというのです。

神様が私に与えて下さったプレゼントだと思うことが大切です。

自己中心に判断するのではなく、父母なる神様の目で見つめ、
受け止める姿勢が必要です。


ですから、たとえ「困難や苦難」があっても
「ありがとうございます」と受け止めて甘受することです。
「成功や恩恵」に対しても「ありがとうございます」と
感謝して自分の栄光と思わず、神様に栄光をお返ししましょう。

また、「精誠・努力」が実らなかったとしても、
その姿を見守ってくださる神様に
「ありがとうございます」と感謝する者になりましょう。

そのような姿を見れば、神様も喜ばれ感動されることでしょう。
「至誠感天」の言葉のように、誠を尽くし続けたならば、
天が感動して、奇跡的な恩恵を下さることもあります。

三つの分岐点において、常に神様が願う選択と判断が
できるように努力いたしましょう。



昨日は困難や苦難に会った時のとらえ方を紹介しましたが、
順風満帆な時でも、有頂天になってはいけないということを
改めて受け止めさせていただきました。

自分の感情のままに動いてはいけない、
頭ではわかっていることですが、
しっかりと実践していきたいと思います。

昨日も書いたことではありますが、
全てを勝利された真の父母様に侍ることができること、
相続できることを改めて感謝いたします。




「自分を中心として起きる周囲のすべての要件には、
無意味なものは一つもありません。
すべてのことが、私を啓発させ、発展させるための
一つの教材として登場するのです。

そのような生活態度が必要です。
一人だからといって、自分勝手にはできないのです。
このような生活態度を中心として生活すれば、
初めて会う人でも、面識のある人でも、誰であっても、
いい加減に接することはできません。

初めて会う人だから、
適当に扱えばいいだろうと考えてはいけません。
その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。

ですから、このようなあらゆる心情的基準を中心として、
体恤する環境を開発する生活をしなければなりません。」

(天一国経典「天聖經」P822)


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posted by ten1ko2 at 09:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする