2016年06月21日

難しいことに出会ったら、ピンチ、チャンス?! ←「幸福」 or 「不幸」→ 3つの分岐点(前)


20020621天地父母統一安着大会 (2).jpg
☆天地父母統一安着大会2002.6.21☆


困難な峠が近づけば、
避けて戻るのではなく、
克服して進まなければなりません。




阿部先生のweb礼拝説教
「幸不幸の分岐点」を紹介します。


人は誰もが「幸福な人生」を求めて努力しています。

しかし、努力していても「不幸な人生」が繰り返される人がいます。
反面、それほど努力していなくても、
順調で「幸せな人生」が続く人もいます。

このような違いはどこからくるのでしょうか?

ただ単に、運が良いとか悪いということだけではありません。
それは「幸不幸の分岐点」に「正しい判断」、「原理的な選択」が出来るか、
出来ないかで決定されるのではないでしょうか?

人生の幸不幸は紙一重と言われるように、
小さな過ちが奈落の底に落ちるような困難を招いたり、
小さな心掛けが大きな転換となって大成功したりすることもあります。


ですから、人生のポイントとなる時を知ることが大切です。
その時は、「ピンチ」であると同時に「チャンス」になるものです。
まさに、「幸不幸の分岐点」です。

この時に、ピンチをチャンスに変えられる人、
またはチャンスをさらに大きなチャンスに変えていく人が「幸せをつかむ人」です。

反対に、チャンスをピンチに変えてしまったり、
ピンチが本当に大きなピンチになってしまったりする人が
「幸せを逃す人」まさに「不幸な人」です。


「幸不幸の分岐点」とは、ピンチでありチャンスであると表現しました。
これは言葉を換えるならば、ピンチとは
「サタンが最も狙う瞬間」だということです。

「サタンの誘惑」によって悪なる方向に
引っ張られやすい瞬間なので気を付けなければなりません。
人生の試練の瞬間と表現することもできます。


一方、「幸不幸の分岐点」がチャンスの瞬間であるということは、
「神様が最も働きやすい瞬間」だということです。

その瞬間に正しい判断、原理的な選択ができたら
サタンを分立することができるので、
「神様の役事」によって善なる方向に導かれるということです。

天運の源である神様の役事を受けるためには、
このような瞬間をどのように選択するかが必要です。


それでは、「幸不幸の分岐点」となる時とは、どのような場面でしょうか?
それは三つの分岐点に分けることができます。

第一の分岐点は、「困難・苦難」に直面した時です。
人間関係が難しくなったり、仕事がうまくいかなかったり、
大きな失敗をしたり、疎外されるような立場に立たされたときなど、
難しい状況に直面することは人生の試練の瞬間です。

このような状況に直面すると、悲観したり落胆したり、
諦めたりしやすいものです。
また、不条理な状況に立たされれば不平不満を言いたくもなります。
さらには、このようになった状況の原因は
環境のせいだという思いも出てきます。

しかし、このような選択をすれば、
さらにサタンの侵入を許してしまう結果になります。
このような時ほど、「甘受する心」を持つことが大切です。

責任転嫁したり、自己正当化したり、言い訳をするのではなく、
甘んじて受け入れるならば、その経験は次の成功の踏み台になるはずです。
そのような選択をした人は、
困難や苦難を通して成長し豊かな人格を育むことでしょう。



誰もが困難や苦難には会いたくないものです。
私自身、そういう時には、真のお父様を思い出します。
真のお父様はあらゆる困難・苦難を乗り越えていかれた
まさに、「チャンピオン」です。

お父様が乗り越えていかれた、その思いをたどっていけば、
乗り越えることができるし、
また、お父様に近づくことができます。
すべてに勝利されたお父様に
心から感謝したいと思います。

二番目・三番目の分岐点は明日紹介します。




お父様のみ言

「信仰生活は、頂上なら頂上を征服するために、
最高峰なら最高峰を征服するために、
必要な材料を収拾するのと同じです。

ですから、皆さんは困難な峠が近づけば、
その峠を避けて戻るのではなく、
克服して進まなければなりません。

今、ぶつかっている難しいことより、
もっと難しいことに遭遇するようになっても、
『私はそこで滅びない』という真剣な立場で、
その困難を自分のものとして消化できる、
主体的な自我を発見するために
努力しなければならないのです。

(天一国経典「天聖經」P815〜816)




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2016年06月20日

毎日を「感謝」で始めましょう! 泥水を作らない、清い水を増やす!! 《真のお母様のみ言》


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祝福家庭の食口たちは、
堕落した世界において
清い水(ピュア・ウォーター)です!




ヤンキースタジアム大会40周年記念式祝勝会が
6月6日イーストガーデンにて行われました。
週刊ブリーフィングにお母様のみ言が掲載されています。


真の父母様は天のみ旨を奉じ、人類を救援するために、
「ために生きる真の愛」を実践しながら生涯を送られました。

その業績を一目でみな見ることのできる
「天地鮮鶴苑」を造る準備をし、構想し、
またそこに動員されるべき人手ですとか、
全ての面で準備を備えています。

ですから、「天地鮮鶴苑」が完成すれば
世界人の行列が絶えることはないでしょう。



私が、3世たちに、
ハワイでAlohaワークショップをしながら、
「皆さんは世の清い水」だと言いました。

この統一家の祝福家庭の食口たちは、
堕落した世界において清い水です。

清い水が多ければ多いほど、
地球が、川が、海が清められ、
清くない人が清い人になるのです。
分かりましたか?

ですから私たち一人ひとりが
どれだけ重要であるか分かりません。

ですから全世界的に、五大洋六大州に、
2世、3世圏が今特使として出て行って働いています。
彼らを通して新たな清い水が増えつつあります。
これは喜ばしいことでしょう?

ですから皆さんの生活が、
清い水を濁す泥水を作ってはいけません。



それで、今回聖婚記念日に
皆さんに四大聖物をあげたでしょう?

天は誠に奧妙にこの一時のために
私たちに多くの準備をしてくださいました。



ですから私たちはいつも天の父母様を考える時、
「ありがとうございます」

このような時代に私たちが真の父母様を知るようになり、
真の父母様によって祝福を受けました。

「天が私を抱くことのできる道を開いて下さった真の父母様、
ありがとうございます。

天の父母様の前に出て行くことのできる私に
なれたことに感謝致します」

毎日毎日私たちの生活は「ありがとうございます」
で始めなければなりません。




昨日の礼拝は、私が担当させていただき、
先日のFE研修会の証などをしました。

その際に、こんな話をしました。
「二世はピュアウオーターであり、ダイヤモンドである。
しかし、ダイヤモンドはダイヤモンドによって磨かれる。
すなわち私たちがダイヤモンドにならないといけない」

真のお母様はこのように語られています。
「この統一家の祝福家庭の食口たちは、
堕落した世界において清い水です」
すなわち、私たち自身も清い水、ピュアウオーターなのです。

だからこそ、ピュアウオーターとしての自覚を持ち、
み旨において訓練を受けていかないといけないと思うのです。



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2016年06月19日

あなたに会うために生まれてきた! お父様の「出会い」に対するまごころ2 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生の伝統の源流。
「先生の出会いに対する心掛け」

昨日は、お父様が「出会い」に対して
どれだけ真剣に心を込めて準備をするのか、
世界・天宙・神様を愛した上で
お母様、子女様にも会われるのだというお話でした。

では、私たちは「出会い」を
どのようにしたらいいでしょうか?

昨日の続きをどうぞ。


皆さん、世の中の家庭を見ますと、どの家庭も同じ家で一緒に生活をしています。

外的に見ればそのように一緒にいて、いつも出会っていますが、
もし心がそれぞれ違っているならば、
内的には全然出会っていないということを、
皆さんも聞いて知っていることと思います。

それは一緒に暮らしていても、一緒に暮らしていないということです。


では、私たちはどうでしょうか。

今、私個人のことを考えてみても、
自分の心と体が別々に動いているとするならば、
自分の心と体は一緒にいるのではなく分かれているのです。

もし、一つの部署において、あるいは教会において、皆が一緒にいたとしても、
一人一人の心が別々であるとするならば、
それは一緒にいるのではなく、別々に分かれているというのです。

私たちは現実の自分というものを、
はっきりと見つめていかなければならないと思います。
それは消化できていない自分を知らなくてはならないということです。


私たちは一年、二年と同じ教会で一緒に暮らしながら、
どれだけ自分の心を打ち明けられますか。
寂しい時には「私、寂しいの」、喜ばしい時には「私、とてもうれしいの」と、
お互いにそういう状態の話し合いをできる人が何名ぐらいいますか。

そのように聞いた時に、皆さんは何名いると答えるでしょうか。
そう言うと、たいてい「一人」、「二人」、「いない」と答えるのです。
これが現状なのです。

特に、本当に自分の心情を打ち明ける、という点になると、
「誰もいない」ということになるのです。

皆さん、世の中では、十年、二十年、三十年間
一緒に生活している夫婦の間でさえ、
「あなたは私の心情をよく分かってくれない」ということがよくあるのです。
これが世の中です。

そしてまた私たちの世界においても、それが適用されているというのです。
そうですか。(はい)
私たちはこれをはっきりしなくてはなりません。


そういうことを考えてきますと、
つまり夫婦の出会い、兄弟姉妹との出会い、親との出会い、
親戚との出会い、友達との出会い、
これらの出会いがうまくいっていないということが分かってきます。

それがはっきり分かることによって、私たちが今後、
このような出会いをいかにしなければならないか、
という道が開かれていくのです。

私たちの心と体はいい加減に出会っています。
そしてまた親子の出会いもいい加減にしています。
夫婦の出会いもいい加減にしています。
そういう結論になります。

ですからさっきもお話ししたごとく、先生の神様との出会い、
先生とお母さまとの出会い、先生の子女様に対する出会い、
先生の私たちに対する出会い、
それらがどういうものであるかということを
考えながら解決していきたいと思います。


例えば今、私たちは相対者に会おうと思ったらたやすく会えるものですから、
会うのはそれほど難しいものではないと考えています。

しかしながら、この出会いというものがどれほど真剣なものであり、
どれほど難しいものであるかということを立証するために、
次の例をとってみましょう。

一人の人が神のみ言から離れて間違ったことをしたとします。
そうしたときに、今までそういうことがなかった時には
相対者にたやすく会うことができたのに、間違いを犯したその瞬間、
その人は、自分の相対者に会うことがなかなか難しいことを感じるでしょう。
そうではないですか。

ということは、本当に神だけを愛した自分でない限りは、
相対者を愛する、相対者と会うということが難しいということです。
それがはっきり分かるだろうと思います。

つまり、私たちが神の善なる道を行き、その道を通さない限りは、
自分の相対者に会うことができないということです。
何か分かりますか。

ところが私たちは、この相対者と夫婦の関係になると、
たやすく会えるものと考えてしまいます。
これは非常に間違った考え方です。


メンバーとメンバーとの関係、メンバーとリーダーとの関係も全く同じことです。

リーダーがメンバーと会う時、
「私はリーダーだから、たやすく会うことができる」と思うかもしれませんが、
メンバーに出会うということがいかに難しいことであり、
真剣なことであるかを忘れてはいけません。

メンバーもリーダーに会う時、いつも同じ所で一緒にいますので、
それほど難しくないと考えるかもしれませんが、それがどれほど難しく、
真剣なものであるかということを忘れてはいけないのです。



人との出会いということが
どれほど貴いことなのか、
昨日に続いて、考えさせられます。

私自身が完全投入で歩むこと。
その土台で、目の前の人たちに
貴い思いをもって出会うこと、
それが重要なのです。

いつも出会うと、どうしても当たり前の感覚になり、
また、相手もそう思っていたら、
こちらのその思いに主管されてしまうかもしれません。。。

今しかない出会い。。。
お父様のみ言をしっかり守っていきたいと思います。



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