2016年06月03日

み言を自分のものにしないと、サタンに奪われる?! 《金元弼先生》 



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話をする時は全部を話さないで、
十あれば三ぐらいを残しなさい


金元弼(ウォンピル)先生の伝統の源流。
『み言と一致化する努力』の続きです。


み言も、先生が勝利された後で、私たちに与えてくださるものです。
試験をし、勝利して初めて、一つ一つ与えてくださるわけです。

人から聞いた話を語るのではありません。
だから先生は、尽きないで何回でもみ言を語ることができるのです。

頭で習ってやったものは、何回かすればやりたくなくなります。
そういう言葉は、人の頭の復興はできるかもしれませんが、
生命の復興はできません。
そこが違うのです。

「人のために尽くしましょう」という同じみ言でも、
語る人によって感動は違うのです。
あなたとメンバーと同じことを言っても、受け取る内容は違ってきます。


まずみ言を自分のものとする過程が必要であることを忘れないでください。
統一教会で長年やってきても、そういうことをしなければ、
喜びがなく、み言の価値が分かりません。

よく語る人がいいですか、話さなくてもよく行う人がいいですか。

言葉で「愛する、愛する」という人より、
「愛する」とは一度も言ったことがなくても、
愛してくれる人が好きでしょう。


例えていいますと、話をする時は全部を話さないで、
十あれば三ぐらいを残しなさいということです。

話をたくさんすると、その後でおなかが空いたように、
何かむなしさを感じます。

自分にいっぱいあったものも、全部あげてしまえばなくなるでしょう。
例えば1000ポンド持っていたとしましょう。
それを与える時は気持ち良くても、全部与えた後は、
何もなくなるからむなしいのです。
それと同じです。

そのむなしさは、満たされなければいけません。
そしてそのためには、基盤がなければいけません。
お金を稼ごうとしたら資本金、種になるお金が必要です。
それがあれば、すぐまた増やせるのと同じです。


昔、聖パウロが天上の情景を見ました。
それを十三年後になって人々に証したのです。
なぜか分かりますか。

貴重さというのは全部分けてあげると感じなくなります。
自分だけがもっている時にこそ、宝石なのです。
この人もあの人も持っていたら、価値がなくなります。
それゆえ彼は、十三年前に見た天上の情景の感激を、
自分一人でもっていたのです。

伝道に出掛けても、たくさんの迫害を受け、
自分自身がダウンするような時にも、
その情景を思い出して、
また力を出して勝ち抜いていくことができました。


人を教えるのは、それ以上のものをもっている時です。
そうでないのに、どんどん出してしまうと、
何もなくなるから、ほかの人のところに行って、
力を補ってもらわなければいけなくなります。

神はまず、自分のものにしなさい、
その次に人に分け与えなさいと言って、祝福を与えたのです。
そうすれば、神の祝福は全部、全体に行きわたります。


ところが、自分が一致化せずに、つまり自分のものにせずに、
ほかの人に与え、その人自身も自分のものとせずに、
また人に与えたら、その人たちは全部空になります。

そしてその一番末には誰がいるかというと、
そこにはサタンがいるのです。
そうすると、この人たちは全部がサタンの側に入ってきます。

神は愛する人にみ言と祝福を与えたけれども、
自分のものとしなかったがゆえに、
その祝福を誰がもっていくかというと、サタンがもっていくのです。


皆様がいろいろな兄弟たちに教えたり、お話ししたりする時には、
まず自分のものとする努力、
一致化させる期間が必要であることを忘れないようにしてください。

み言をそのまま行ってみると、
神のみ言、人格、心情も全部分かってきます。



お父様はみ言の実体です。
み言を勝ち取られたお父様なので、
み言に力があるのです。

自叙伝書写を推進しておられる浅川先生も
「自叙伝には、心を綺麗にしてくれる『洗浄力』がある」
「文先生の人を幸せにしたい、という念が文章に込められている」
そのように語られます。

私達は、勝利した立場ではないので、
語ってばかりだと霊的に吸い取られてしまうのでしょう。

パウロのごとく、霊的貯蓄をしっかりとしながら、
み言を自分のものにする努力をしていきたいと思います。


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