2016年09月30日

猛反対していた夫と奇跡的に祝福!  ≪伝道の証し≫



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今回は、大反対していたご主人とともに
祝福を受けた証しを紹介します。
(一部、編集しています)


先日、私は夫と一緒に祝福式に参加することができました。
私にとって、このことは本当に奇跡で、
もう嬉しすぎて今でも信じられない気持ちで一杯です。

私は今51歳で、導かれて今年で10年になります。
夫は、53歳で現役の公務員ということもあり、教会に対しては猛反対。

私が祝福への参加をお願いすると、
「仕事を辞めろっていうんやな」
「離婚か教会辞めるかやー!」と、夫は毎回こんな調子でした。

私は「今回もまたあかんやろなぁ。
夫は公務員だし、定年になるまで難しいし、
2020年過ぎてからでも良いかも…」
と半ば祝福を諦めていました。


私は、長女の不登校がきっかけとなり導かれました。
5年前に長女が精神疾患になったものの、
その後順調に回復に向かっていたのですが、
最近になって心配な症状が出るようになりました。

それに加えて長男が突然、椎間板ヘルニアを患い、
夫も自らの体調について不安を口にするようになりました。

私は「今回の祝福を逃したら、家族みんな が大変になる」
という悪い予感が強くなっていきました。

教会長は、私に対して「祝福はいつ受けるの?」
「子ども達はどんどん年いくよー」
と何度となく真剣に話をしてくださいました。

また婦人代表や祝福担当者、基台長など
いろいろな方々と報告・連絡・相談をしながら、
自分が変わることが祝福に向けて一番大切なことだと気付かされました。


それまでの私は、夫や環境のせいにしたり、
方法論や手段ばかりを考えて、自分で勝手にダメだと決めつけ、
自ら祝福のハードルを上げているのがわかり、
私自身が本当に問題だったと悔い改めました。

夫が頑なだったのは、私が夫を永遠の相対として
正しく認めてなかったからと気づかされました。
夫を永遠の相対だと受け入れたときから、
どんどん良い方向に進んで行ったように思います。

自分の力でするのではなく天の父母様と真の父母様に全て委ね、
先祖と絶対善霊に祈っては具体的にお願いしながら、夫に接していきました。


今までは夫に祝福について話すだけでも怖く、不安で自信もなく、
最後にはあきらめてしまう私でしたが今回は違いました。
「もう死んでも何でもいい」と覚悟すると、
力はぬけて自然と勇気も希望も自信も湧いてきました。

絶対に最後まで諦めずに「ハイ!」と言ってくれるまで
お願いし続けようと決めていました。

すると今までの夫とは違い、反発はするけれど最後まで話を聞いてくれ、
教会に対するマイナス的なことも言いませんでした。

私は「夫は賛成することが不安なのだ」と悟り、
「私がいるから大丈夫!」という言葉が思わず口からでました。

すると夫は照れくさそうでしたが、
嬉しそうな顔で「もうええわあ〜」と言ったのです。
そして祝福式当日の朝、「わかった。行くわ!」と言ってくれ、
無事に祝福を受けることができました。


2020年を迎える前に祝福を受けられたことを心から夫に感謝し、
これから真のお母様が願われる救国救世基盤造成を目標に、
天の父母様と真の父母様が喜ばれる神氏族メシヤとして、
夫と共に出発したいと思っております。

ありがとうございました。



先日、うちの教会でも、
30年来、奥様が教会の信仰を持つことを反対していたご主人が、
初めて教会長を家に迎えて、
家庭集会を行うことができました。

頑固な方だということでしたが、
教会長も長く話される中で、
「とても情のわかるいい人でしたよ」
このように話されていました。

婦人としては、奇跡的なことであり、
そして、教会長と会われてから、
ご主人の雰囲気が違ってきた、と言われていました。

もちろん今まで取り組まなかったわけではないのですが、
教会長の決意に婦人が相対して、
決意して臨んだ結果、導かれていきました。

また、教会長は、
「今は時代が違う」
ということも仰られていました。

時代の恩恵圏が拡大されていることを確信すれば、
カイン圏が開かれていく時を迎えています。
しかし、重要なのは、アベル圏である
私たちの決意なのだ、と感じます。




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posted by ten1ko2 at 08:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 祝福の価値 祝福の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月29日

お金を渡せる喜び?! お父様と一番近かった日々、ボンネッコル時代!!  《金元弼先生》


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金元弼(ウォンピル)先生のみ言、『生活伝道 真の父母様に倣う伝道の精神』
今回は「釜山(プサン)での避難生活」です。


避難生活なので生活基盤は何もなく、食口たちもほとんどいなかった時代です。

平壌で因縁のあった食口たちが時々訪ねてくる程度であって、
先生と一緒に生活する状態ではありませんでした。

そこで先生は「原理原本」のすべてをまとめられたのです。


その当時、私は生活基盤をつくるために、
アメリカの軍人キャンプで仕事を見つけて働きました。

ある時、私がいたずら半分に風景の絵を描いて先生にお見せしました。
先生はそれをご覧になって、一言何気なく
「どんどん絵を描くようにしなさい」と言われました。

そしてある時、軍人キャンプの私が働いている所に、
絵を描く人が人事になってきました。
この人が私に絵を描くことを教えてくれたのです。

その人は毎日の仕事が終わると、夕方から夜にかけて、
アメリカ兵の持っている家族写真などを絵に描いてお金を稼ぐ専門家でした。
その人が私に勧めてくれたので、私も描き始めました。
こうして、先生の何気なく言われたお話が現実化していったのでした。

私は朝仕事場に出て夕方帰り、夕方から絵を描き始めて夜までどんどん描き、
次の朝早くそれを持ち主に渡してお金をもらうようになりました。


当時、先生は「原理原本」を書き終えられ、
み言をどんどん伝えておられる時でした。
私たちが定着してくると、神の啓示とかさまざまな因縁を通して、
再臨の教えを求める人々が続々と小さな小屋に集まってきました。

先生は、そういう人々が来ると、
その小さな小屋で朝からずっとみ言を語ってあげました。

先生は私が帰ってくるまではたいてい伝道され、
私が帰ってくると私の仕事を助けてくださいました。


一緒に寝ていると、真夜中に、電灯もない真っ暗い中で、
すすり泣く声をたびたび聞きました。
その声に起こされて先生のほうを見ると、
暗い中で先生がひざまずいてお祈りしている姿がありました。

ある時は聖歌や讃美歌を何度も何度も繰り返しながら歌っておられ、
私もびっくりして起きることがありました。

ある時は寝ている私を起こされて、
朝の三時か四時ごろに一緒に丘に登り、先生がお祈りをされました。

またある時は、「原理原本」を書かれている時、
深く眠っている私を起こされて、「書くものを準備しなさい」と言われました。
私が灯を準備していると、
先生は「これから私が語ることを書き取りなさい」と言われ、書いたこともあります。


私が仕事場に朝出ると、先生はお一人で食事を作って食べられました。

当時私たちが建てた家というのは、人家のない、村の墓地のふもとで、
水道も井戸もありませんでした。
そこで先生は泉を探し、先生ご自身が土を掘りました。
その水がとてもおいしいといって、
婦人たちがたくさん来て水を汲んでいきました。


そういう中で私は絵を描いていました。
人々がどんどん来るのですが、
この人たちは本当に道を求めて生活する宗教人ですので、
お金も何も持っていないのです。

そういう人に先生は温かくみ言を与え、
服を買ってあげたり、お米を買ってあげたり、お金をあげたりされていました。
そうするとどんどん出費が多くなっていくのですが、
そうすると私の絵の注文もそれに比例して増えていきました。

私は先生にそのお金を差し上げるのが一つの大きな楽しみでした。
二枚描いたら二倍、三枚描いたら三倍になって収入がどんどん増えていきます。
それが私としては非常に楽しみでした。

こういうことを考えてみると、先生がセンター・リーダーで
私はファンダレイジングの責任者です。
私としてはファンダレイジングが責任分担ですから、
実績をどんどん上げて先生が伝道できるように支える仕事です。


私が夕方に帰ってきて絵を描き始めると、
キャンパスを準備しなければなりませんでした。
ところが先生は、その時になって準備するのでは間に合わないということで、
自ら昼間にそのキャンパスを全部準備してくださいました。

絵を描く仕事は最初は時間がかからなかったのですが、
その数が増えるに従って、次の朝
私が出発しなければならない六時直前までかかることがありました。
普通は一時か二時までかかりました。

先生は最初は、私が絵を描く時には常に私のそばにいて、
全部描き終わるまで見守ってくださり、
私が寝る時にはそれを全部荷作りしてくださり、
朝になると私を起こして、
それを持っていくように支度をしてくださいました。

絵を描くことは私の責任分担ですから、
先生はそれをしなくてもいいにもかかわらず、そうしてくださったのです。
最初はそばで見ながら「これはこう」「あれはこう」と指導してくださいました。

ところが注文がたくさんになって早く描かなければならないので、
背景の色を先生がつけてくださるようになりました。

その次には衣装を担当してくださいました。
そしてある時はまだ時間が足らなくて、髪の毛も担当してくださいました。
ですから私はただ顔だけ描いたのです。


ある時霊能者の食口が夜遅くまでいて、泊まらなければならないことがありました。
そのおばさんは非常に疲れていたので横になり、布団も何もかけていないのです。

そうすると先生は霊能者のおばさんに、
「若い者がこのように働いているのに、そのように横になってはいけない。
横になりたいなら、その壁に背中を当てて休みなさい。座って寝なさい」
と言いつけられました。

こういうことを考えてみると、先生は仕事をすることは当たり前で、
それは全部自分がしなければならないという考えでおられたのです。
ですから私が絵を描いたというより、
先生が描かれたと言っても過言ではないのです。



先回も書いたと思うのですが、
お父様とともに過ごされた金元弼先生が
本当に羨ましくてなりません。。。

そして、元弼先生の描かれた似顔絵、
もっと欲を言えば、お父様も背景を塗られたという
その絵は残っていないのかな、と思います。

元弼先生は、絵が得意だったと思うのですが、
趣味ではなく、お父様のため、
生活のために描かれたので、
晩年の作品もないのかもしれないですね。

まぁ、それはともかくとして。。。
夜中、元弼先生が休まれている時、
お父様の祈りの声、聖歌を歌う声で、
目を覚まされたことがあるといいます。
お父様がどれだけの祈りを捧げられたのか、
その切実な思いが伝わってきます。

2020年に向けて、
私たちもそんな心情を相続して
歩むときなのだ。
そのことを思わされるのです。


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2016年09月28日

ワシントン大会から40年!お父様の勝利を再現する!?



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先日の礼拝で教会長が語られたみ言を
少し編集して紹介します。


家庭連合創立57周年に参加して、
2020年に向けて、新しい出発をしました。

2020年に向けての目標はご存知ですよね。
20万人の核心会員、80万の賛同会員です。
これは、簡単に実現できるでしょうか。

私達の団体を国民に知っていただかないといけません。
「統一教会」が有名になったのは、
1992年3万双の合同結婚式の時でした。
その時のマスコミ報道の記録は破られていないそうです。

しかし、その時は、正しく証しされませんでした。
私たちが証さないので、そのようになってしまいました。

今、堂々と証すべき時です。
私たちが証さなければ、どうなりますか?

今、影響力を与えるためには、どうしたらいいか・・・
真剣に祈ってみた答えが、『ワシントン大会』でした。
ちょうど、週刊ブリーフィングの特集がワシントン大会でしたね。
ですから、本当にタイムリーだと思いました。

お父様は、71年に渡米され、
わずか5年で、基盤を築かれて、
30万人の大会を成功されたのです。

無名のお父様が、一躍時の人となり、
全米に、世界に名前を知られるようになりました。

そのような取り組みを成しながら、
家庭連合を世間に知らしめていかないといけないと思います。

その時は、お父様が食口をひっぱりながら、
歩んでこられたのですが、
今、この時は、私たちが主体的に歩む時です。



お父様は、渡米されて、まだ何の基盤もない中でしたが、
大会をする決意をされました。

ニューヨークのアメリカ食口は精誠を尽くして活動しました。
徹夜祈祷が続けられ、一週間ずつ断食することも日常茶飯事でした。
そして、朝から晩まで一軒一軒訪問して、チケットを販売し始めました。

最初は何をどう語っていいのか分かりませんでした。
イエス様の教えそのままに、
「(あなたがたが)何をどう言おうかと心配しないがよい。
語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」
(マタイ福音書第一〇章一九、二〇節)
この聖句を信じて、大胆に家々の扉を叩きました。

すると驚くべきことが起こり始めたのです。
扉を開けて入ると、「あなた方が来るのを待っていた」と言う人が現れました。
さらには、「きのうの晩、夢の中に白い老人が現れて、
あなた方が訪問することを知らせてくれました」と言ったり、
「あなた方は韓国から来られた高名な牧師様のことで来たのでしょう」
と出し抜けに挨拶を受けることもありました。

夜ごとに信徒たちが集まって報告会をする中で、
不思議なことが次々と報告され、
奇跡が至る所で起きていることを知るようになりました。

これによって、すべての教会員が勇気百倍となり、士気は旺盛になり、
世の中によくある講演会ではなく、天が働かれ、
霊界が動員された立体的な「主のみ言宣布大会」であることを、
誰もが確信するようになりました。

アメリカでの最初のみ言宣布はニューヨークの真ん中で、
超満員の聴衆を得て見事に成し遂げられました。
題目は「キリスト教の危機とアメリカの新しい希望」でした。

今、私たちは、「日本の危機と新しい希望」と題して、
多くの人たちに宣布しないといけません。
そして、家庭連合を堂々と証ししないといけません。

そのようにして、大会を開き、多くの人たちに
私達の活動を知っていただくのです。
(文責ten1ko2)



2020年まで、あっという間に3年と3か月になりました。
時はすぐに過ぎ去っていきます。

しかし、お父様も何の基盤もない、アメリカで
最初の大会を勝利され、
その土台で、1976年、アメリカ建国200年の時、
大きな大会を大成功に導かれたのです。

その時、アメリカの食口をはじめ、
日本からアメリカに渡った食口たち、
多くの兄弟姉妹たちは、一つになって
奇跡を起こしていきました。

今、まさにそのような時が来ています。
問題は、私達一人一人が立ち上がるか否か、
そこが問われていると思うのです。



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posted by ten1ko2 at 09:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする