2016年09月06日

家庭の中のサタン撃退術! 夫と妻にも会い方がある?!  《金元弼先生》1



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福の中で最も貴い福は
神の愛です。
結婚はその福を受けて
実践することです。

(自叙伝より)



金元弼先生のみ言
「伝統と源流」から
『祝福と理想的な出会い』
一部分を抜粋して紹介します。


(祝福を受けて家庭をまだもっていない)皆様は
別々に生活しますが、いつか一緒になります。

その会った時に、
皆さんが祝福を受けた時に神の心情とみ言と一体化したのと、
どのくらいの距離があるのか、
またはその種があるかどうかを、今から考えてみてほしいのです。

その間、どのような次元で愛していたのだろうか、
もし最初の基準に比べて距離があるとするならば、
どれくらい落ちているのかと考えてほしいのです。


家庭をもっている人はどうでしょうか。

朝、お祈りして出発しますが、朝出発した時と帰ってきた時と比べて、
どのくらい高められた立場で相対者と会っているのか、追求しなければいけません。

み言と心情を中心として真の親の心情と一体化していた時と比べたら、
帰ってきた時には、熾烈な闘いをしていないと高められません。

祝福を受けて出発した時の一体化した基準と、今の基準とを比べて、
どれくらい高まっていますか、低くなっているのですか。


私はソウルで家族と一緒にいる時には、
朝出て夜帰ってから子供に会い、相対者に会うというのは、
何も難しいことではないと考えていました。

しかし、先生のみ言、先生の御家庭の生活を見るときに、
相対者や子供に会うということがどんなに難しいものであるかということを、
一つ一つ実感してまいりました。


神と世界とこの国のために私たちが仕事をし、
本当に尽くしたならば問題はありません。

けれども、先生が言われるほどに私たちは尽くしていないし、
やってもあまりできないまま家に帰って、相対者や子供に会うのは
大変難しいということを実感しました。


相対者と神と真の父母の前で、“真の親の心情と一体化し、
力を合わせて神と真の親と共にやりましょう”と誓って出発したのに、
私がその約束を果たしていない立場で相対者に会おうとした時には、
相対者に会うのが非常につらく、難しかったのです。

神の道を良く歩めず、責任を果たしえないで家に帰った私でも、
相対者は考えて、本当に喜んで迎えてくれました。
子供たちも自分の希望であるごとく迎えてくれました。

そういう時に、私は良心の呵責を感じて、恥ずかしくなったのです。


私たちがお互いに会う時に、
どういうことを考えなければいけないでしょうか。

相対者はいろいろなことをして帰ってきて、私と会うのです。
悲しいことや恵みの時や、悩み事もあって帰ってくるのです。

ですから、相手がきょうも難しい神のみ言を実践して、
難しいことや喜びや悩んだこともあったことだろうと、
相手のことを思いやる心をもつことは、非常に大切なことだと思います。

そうしたら、サタンにいくら反対されても、
よく闘って勝利していくことができます。

家庭をもっている人は、一日の中で難しいことが起きても、
相対者を迎えて、相対者の慰めの一言で、
すべてを忘れようとするのです。
それが婦人の立場です。



真のお母様は、完全投入の歩みをされて
そして、本郷苑のお父様に
報告をしておられるのだと思います。

私達も当たり前のようにして出会う家族ですが、
しかし、毎日会うことができるのも、
奇跡の連続なのだと思います。

知人の教会長が、単身赴任の歩みをされているのですが、
久しぶりに家に帰ったら、当たり前の日常に
心から感謝させてもらった、とコメントしていました。

毎日、当たり前の背後に深い神様の愛があるということを
私たちは忘れてはいけないのだと思います。

明日に続きます。



真のお父様のみ言


結婚は私のためではなく相手のためにするものです。
結婚するとき、立派な人やきれいな人ばかりを
追い求めるのは間違った考えです。

人間は、人のために生きなければなりません。
結婚するときも、その原則を忘れてはいけません。
いくら愚かな人でも、美人より
もっと愛そうという心で結婚しなければなりません。

福の中で最も貴い福は神の愛です。
結婚は、その福を受けて実践することです。
その貴い御旨を理解して、真の愛の中で結婚生活をし、
真の家庭を築かなければなりません。
 
世界平和とは、その言葉どおりに雄大なものではありません。
家庭が平和であってこそ社会が平和になり、
国家間の葛藤が消え、
それがあってこそ世界平和への道が開かれます。

ですから、完全な家庭こそが重要であり、
家庭の責任はそのくらい大きいのです。

「私さえ幸せに暮らせばよい、私の家庭さえ守ればよい」
という言葉は、私の辞書にはありません。


(自叙伝228〜229ページ)





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