2016年09月14日

どのようにしたら愛の人になれるか?! 答えは、真の父母を通して!! 《可知講師》


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特別巡回師の可知講師が
毎月、私たちの地区に来られて
み言を語ってくださっています。

印象に残ったところを
不定期にお伝えしていきたいと思います。


幸福を得るために最も重要なものが「真の愛」です。

では人間はどのようにして愛の人間になる事ができるのでしょうか。

もしも、自分に関わるすべての人々が自分を見捨て、
自分も自分に対し投げ出したとしても、
それでも最後の最後まで真の愛で自分を愛する存在がいるとするならば、
人間はその存在を愛そうとしないでしょうか。

そして自分もその存在のように他を愛したいという心情が湧いてこないでしょうか。

それゆえ、人間を絶対的に愛する愛の主体者がいれば、
その存在と関わることを通して人間は愛の人間になっていくのです。
その愛の主体者とは神様以外にはいないのです。


(御言)
「失った神様と人間との関係の回復、
 それは相手のために生きる
 神様の愛によってのみ可能となるのです」

(1981.4.25)『祝福家庭と理想天国』〈T〉p.547


「我々は神の愛を受けずしては蘇える事はできない」
(1967.7.10)


「要は神様がいるという事を
 はっきり知ったならば、すべては解決する」
(1972.4.23)


「神様の愛と一つになれば、
 神様の愛を実践できるようになります。
 そうなれば世界統一は自動的に実現します。

 私たち堕落した人間に必要なのは、
 神様の愛で愛する事のできる人となる事です」

(1977.10.9)『祝福家庭と理想天国』〈T〉p.558


人間は、自分が神の愛を受け、それを受け止めている
度合いしか神や人を愛する事ができません。

自分が神様をどの程度愛しているかという事は、
自らが神の愛をどの程度受け止めているか、
その度合いを見てわかります。

すなわち、受け止めている度合いしか、
神を愛せないし、人も愛せません。


まず、イエス様の場合で考えてみましょう。


「私の父は今に至るまで働いておられる。
私も働くのである」
(ヨハネ福音書5・17)


この聖句により、イエス様は、ある時、
今に至るまで人類の親として
その救いのために働いてこられた愛の神様を知り、
み旨のために神様の解放のために働く決意をされた事を、
伺い知る事ができます。


「父が私を愛されたように、
私もあなた方を愛したのである」

(ヨハネ福音書15・9)


「子は父のなさる事を見てする以外に、
自分からは何事もする事ができない。
…なぜなら、父は子を愛して、みずからなさる事は、
すべて子にお示しになるからである」
(ヨハネ福音書5・19〜20)



「父が私を愛されたように」とは、
また「すべて子にお示しにな」った愛とは、
具体的にどのようなものだったのでしょうか。

聖書ではそれには触れていませんが、
最も関心をそそられる個所です。

しかし、その神様との体験こそが、
イエス様が神様を愛し人々を愛するようになった原点である事がわかります。


次に、真のお父様の場合で考えて見ましょう。

真の御父様は、なぜ神様の御旨成就のために生きる決意をされたかについて、
次のように語られています。


「今までこういう事をやってきたのは、
 御飯がないから…名誉が欲しいから
 …誰かが恋しいからそうするんじゃない。

 これはたった神様をわかったから、
 そなたのその心情がわかったから。

 そなたの悲しみというのは我々には問題にならない。
 千万倍にもなる。
 例に例える事ができない」
(1965.10.8)


「先生に対して一言その時の心情に
触れるものがあったら、
先生は涙を禁じ得ない。
神様もそうだ。

先生と神様と抱き合って泣いた悲しさは、
地上の人々は誰も知らない。

その深い神への心情は計り知れない。
それを思うと体の細胞がしびれるようだよ。

そういう心情で神への孝行の道を進んでいる事が、
あなたたちにわかる?」

(1970.10.13)


それゆえ、私たちの場合も神の愛を受け止めている度合いが、
他への、すなわち神様や真の父母様や家族や
他の人々への自分の姿勢となって表れるのです。

自分の神様に対するいい加減な姿勢は、
神の愛をいい加減に受け止めている表れであり、
アベルの立場に立ったときカインに対して
真の愛で対せないのは、
神の愛を受け止めていない自分の姿の表れなのです。


しかし、人間は新生児からスタートするため、
神様から愛を受けたとしても、
初めから神の愛を感ずることはできません。

そのために神と子女との間に仲保者が必要となるのです。
その仲保者の役割りを果たすのが親です。
親は神が自分を愛して下さったように子を愛します。


アダムとエバが堕落しなければ人類に対する神の愛が
親を通してすべての子女に注がれていくはずでした。

しかし、アダムとエバの堕落によって、
親を通して子女に注がれるべき神の愛が
閉ざされてしまいました。

アダムとエバは人類の真の父母ではなく、
偽りの父母となってしまったのです。

それゆえ、神は人類の真の父としてのメシヤを遣わし、
神の愛の世界を人類に知らしめることが必要となりました。

堕落人間は神と一体化したメシヤが持つ神観を
メシヤを通して相続し神観を確立していくのです。


(御言)
「信仰生活の基準はメシヤである。
メシヤに似る事が信仰である」

『祝と理』〈T〉p.325

「メシヤ…その方は
神様を完全につかんでいるので、
その方を完全につかむ人は
神様をつかむ事ができるのです」
『祝と理』〈T〉p.563



堕落人間は、自分では神様がわからないために、
神と一体となったメシヤを通してしか神の愛を知る方法がないのです。

それゆえメシヤが私たちに注がれた愛をどれほど深く受け止めたかが、
その人の、神を愛し、メシヤを愛し、人を愛する愛の度合いとなるのです。



当たり前のことなのかもしれませんが、
やはり、真の父母様を通さない限り、
神様に至る道はないのだということを
改めて感じます。

そして、日々の生活において、
「真の父母様ならば、どのように歩むだろうか・・・」
「どのように今の私を見つめておられるだろうか・・」
そのことを考えつつ、歩むことが重要だと思います。

どのような意識をもって歩むのか、
それは「私自身」に問われているのです。




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posted by ten1ko2 at 09:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする