2016年11月21日

「真の愛は、直短距離を通る」!! だから、お母様が真の母なのです!!



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「真の母」という立場は、真のお父様が認めたものですが、
真のお父様というお方は、実行されずにみ言を
語ることはありません。
真理をすべて究明され、その真理のごとくに
すべて行動され、実証されたお父様です。

ですから、「真の母」が無原罪であり、
確かに勝利された正真正銘の真の母であることも、
原理的にすべて解明され、
また証明されたことなのです。

  「真の父母様を中心に一つになろう」HPより
  真のお母様の『無原罪性』の補足説明E
  肉的堕落とは、サタン側への“血統転換”である


今日は、この内容を少しまとめて紹介します。



愛には縦的愛と横的愛があるのです。
父子関係は縦的愛であり、
夫婦関係は横的関係です。

縦的愛は血統的につながり、
夫婦関係は血統的につながりません。

(『訪韓修練会御言集』12ページ)



これは本当に重要なみ言です。
このことを私たちはハッキリと知らないといけないと思います。

上記HPの記事によれば
「肉的堕落」とは、単なるアダムとエバの夫婦関係ではなく、
エバを通して、サタンとアダムの間に
“偽りの父子関係”を結ばれました。

同時にそれは、堕落エバの立場も、
“悪なる母子協助”をすることで、
アダムをサタンの息子に生み変えてしまったのであり、
そこにも“偽りの親子(母子)関係”が結ばれたというのです。


真の愛の種が夫婦関係を通して、
相対に相続されることなどあり得ません。

ですから、反対派が主張する
『血分けの論理』はあり得ないことであり、
『6マリア』は存在することなどないのです。


お父様は、このように語られています。


「血統が連結されたものは、父子関係です。

真の父母の真の子女にならなければなりません。
それが祝福家庭です。

アダム家庭で堕落してこのようになったので、
反対にひっくり返したのが祝福家庭です」


そしてお母様は、堕落したエバを蕩減復帰するために、
以下のように、3つの難しい道を勝利されました。


まず、堕落したエバは、神様の愛を裏切ったゆえ、
今度は神様から見捨てられたかのような立場、
すなわち「霊的死のような境地」を通過したとしても、
今度は神様を絶対に裏切らず、
絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立て、
「神の娘」として勝利して、
神様を裏切った罪を清算しなければならない。


二つ目に、堕落エバはアダムを裏切ったゆえ、
神の御旨のため一心不乱に歩むアダムの前に、
絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てなければならない。

特にアダムが完成期の七年路程を神様のみを見つめて歩むとき、
エバを無視するかのような状況が起こっても、
その期間、それでもエバはアダムを信頼し、
絶対に裏切らない基準を立てることで、
アダムを裏切った罪を清算しなければならない。


三つ目に、堕落エバは神様やアダムから愛されず、
淋しい立場を通過すると言える。

このようなとき、淋しさを埋めようと、
再び“不倫の罪”を犯しやすい状況に置かれると言える。

しかし、そのような試練をも、
今度は絶対に“不倫”をせずに貞操を守り通り、
天使長を神の愛によって主管して越えていくことで、
エバは天使長に対して犯した罪をも清算しなければならない。
(上記HP参照)



真の父母様の勝利圏に
心から感謝しつつ、
『真の愛の道が直短距離を通る』ことを
発見されたお父様のみ言を
紹介して終わりたいと思います。


43日間、霊界に行って闘っていたその時は、
神様までもサタンに、
『文総裁をたたきつぶしなさい。』と言うのです。
それが43日間続きます。

『文総裁が後退しなければならない。』と言うのです。
五大聖人、神様、サタンまで、すべて反対しました。

文総裁が『これ(血統)しか原因がないではないか?』
と言う時、神様も『そうだ。』と言えば、
すべて終わるのです。
……(ところが)すべてが反対なので、それもできません。

……真の父母になるべきアダムとエバが誤ったので、
真の父母が
これを引っ繰り返さなければならないではないですか? 

ですから、死地に行って本当に難しいときは、
先生で言えば、
『神様と真の父母の愛の定着地がどこですか?』
と、いくら祈祷しても教えてくれません。

祈祷して、祈祷して、その祈祷の度数が満ち、
疲れ果てて倒れ、
サタンが
『もう文総裁は、すべて終わった。』と言って逃げていく、

その間に教えてくれたものが何かといえば、
『真の愛の道は、直短距離を通る。』
という一言でした。

真の愛は、直短距離を通るのです。
その直短距離というものは、どこですか?

上に神様の愛の道があれば、
直短距離は89度でもだめであり、
91度でも直短距離になりません。
直短距離は、ぴたっと90度以外にはないのです。

……真の愛は、横的な面に行く愛も
90度に合わせなければならず、
縦的に下りてくる愛も、神様の愛も、
人類の真の父母の愛も、
縦横を通って90度の点に定着することを
(神様が)教えてあげようとしたことを、
先生はすぐに分かりました。
『分かりました。』と言って、解いていくのです。

……1度だけ角度が生じてもパンクします。
それは不合格品でしょう。

……『真の愛の道は直短距離を通る。』
というその一言が、
どれほど福音か分かりません。
根本問題を解決したのです。
(2006年1月1日)






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posted by ten1ko2 at 15:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

伝道した人が、来なくなった、なかなか歩めない! どうするか?! 《金元弼先生》



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今日も金元弼(ウォンピル)先生のみ言です。
伝道に関してアドバイスしてくださっています。



伝道

質問:み言に感動しても、その後なかなか献身できない人に対して、
どのように導けばいいのですか?


以前は伝道してきた人に、原理を三日間で全部語っていました。
その原理に感動した人が、
「私はあす約束があるので、あすの夕方にまた来ます」とか、
「仕事が残っているので仕事をやり終えて必ず来ます」と言います。
しかし、固い約束をした人でも二度と来なかったという体験が多くあります。

そこで、「夕食を食べなさい」とか、
「和動会や証し会があるので参加してください」ととどめているうちに、
その人は他の人との約束を破ってしまったために
自分の家や職場に帰る必要がなくなってしまうのです。

ところが約束だけして家に帰ると、
自分でも予期しないことが起こるのです。
予想しないことが起こると教会のことを他の人に話し、
その人から教会のいろいろな悪いうわさを聞き、
もう帰ってこなくなるのです。


見えないサタンは、堕落人間が自分の主管圏から神の主管圏に行こうとすると、
あらゆることを通してそれを阻止してくるのです。

モーセの時代に、イスラエル民族が三大奇跡と十災禍をもってしても、
エジプトからなかなか出ることができなかったのと同じです。



他者との協力が大切

次に、み言を教えた人が同時に献身的に活動することを
強調することはできないのです。
また、み言を聞いて感動してもそれは長く続かないのです。

それは自分でつくった感動ではなく、他の人から受けたものですから、
感動を与えた人がいれば感動は続くのですが、
いなくなってある期間過ぎるとなくなってしまうのです。

そして決意すると、悪霊界は昔のことや
自分の周囲のことを思い出すように働きかけ、
み言を聞く前の段階に戻りやすいのです。


ですから皆さんが一人でその人を育てて、
献身的に活動させようとしてはいけないのです。
自分ですべてやろうとしないでください。

子供の教育も自分一人でなく、他の親と助け合うことが必要です。
惰性や習慣性があるので親の言うことを聞かない子供でも、
他の人が言うと、同じことを言っても
新しいことを言っているように考えるし、刺激が強いのです。

世の中の人から文先生は偉大で、
この方の話を聞かなければならないと言われれば、
先生から直接言われるより強く感じるというのです。


皆さんもそうでしょう?
先生がやりなさいと言ってもやらなかったのに、
他の人が先生の言われることをやりなさいと言うと、
さっとやるでしょう。

そのように、み言を教えた人が、
その人に「すべてを切って教会のために尽くしなさい」
とはなかなか言えないのです。
全くその人を知らない隣の人なら、
「献身的に一緒にやりましょう」と言えるのです。

名医でも自分の奥さんの手術は痛みが分かるので、
腕は自分より落ちたとしても他の医者に頼むのです。
他の医者は自分の奥さんでないので、ぱっと切れるのです。


み言を聞いて感動した人が、
「それは素晴らしいですが、自分には
他にやらないといけないことがあります」と言うと、
皆さんは壁にぶつかり、失望してしまいます。

それは皆さんが一人でやろうとするからです。
そして、その人には必ず証が必要です。
このように、献身的になることを勧めるには他の人の協力が必要です。

ご主人の世話もそうです。
周りの人や、他の人のご主人の助けが必要です。
関係をどんどんつくっていくと、
いろいろな人を通してどうすべきかを学ばされるのです。



伝道をするとき、
目に見えないもの、善霊と悪霊が働いているということ、
そのことを忘れてはいけないと思います。

ですから今まで、祈ったり条件を立てたりして、
伝道する人を守って来ました。
さらに中心への報連相や、基台を立て
連携を取る中で、人が生きてくると思います。

特に、子供の教育には
『第三者の親の協力が必要』
本当にそう思います。

さらには、お兄さん、お姉さんの存在も
特に重要だと思います。
ご主人に対してもそうでしょう。

そして、何よりも、私たち以上に、生かしたい、守りたい
神様がいることを忘れてはいけないでしょう。
自分だけでやってしまわないこと、
これは大切だと思います。

家庭連合時代となって、今は、私一人でなく、
私の家族で、私の教会で、
家族意識をもって取り組んでいくことを
天が願われているときです。
家庭をオープンにする時だと思うのです。




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2016年11月19日

金元弼先生の初めての出会い! 「あなたは○○のような味だ」 お父様は何と言われた?!



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金元弼(ウォンピル)先生が
真のお父様と初めて出会われた時の証しです。



文先生との出会い

質問:最初に先生にお会いされた時のことを話してください。

私は学校卒業後の将来のことを叔母さんに相談に行ったのです。

叔母さんはそのころ先生に出会い、
霊界から啓示を受けたりして恵みの中にあり、
心が空中に浮いているような時でした。

南(韓国)から来た若い青年がいて、
真理と神霊に立脚して礼拝しているので行ってみないかと言われました。



父親のような存在

それは先生が北に来られて一カ月くらいのころで、
私が初めて会いに行った時は、
神の妻と呼ばれていた霊能者と、
霊山に祈りに行かれたということで会えなかったのです。

それから一週間後に初めてお会いしましたが、
若い私に対してもていねいな言葉遣いで
「あなたは思索をたくさんしますが、
中心を立ててするようにしなさい」と言われました。

私はそう言われて初めて、自分がたくさん思索し、
それも中心を立ててやってはいないことに気づきました。

先生の所に集まっていた人たちは、
キリスト教の深い霊的体験をしてきた人たちばかりでした。
そういう人たちは先生をメシヤとしてとらえていたのですが、
私は父親のような感じを受けて、
先生の言われることは何でも信じられるのです。

今もメシヤというよりは父親のようであり、
言われることは何でも信じられるのです。
時には理解できないことがあったとしても、
私の心は理解するように働くのです。


だれかが「お前は死んでしまえ。
統一教会から出ていってしまえ」と言っても、
それを恨みに受け取らないで、
私の中にある邪心に死んでしまえと言っているので、
これは有り難いととらえるようになるのです。

ですから先生が何を言われても、
私には何も引っかかるものがないのです。
これは私の努力からというより、
生い立ちから来るものであり、私にとって幸せなことでした。



砂利を煎じたような味

私は先生の言われることを何でも受け入れますから何も質問がなく、
吸い取り紙で吸い取っているかのように全く反応がないのです。

かといって「これは素晴らしいです」「感動しました」とも言わないし、
質問もしないので、先生は張り合いを感じなかったのです。

それである日、先生が私に

「この集団は六千年前にもなかったし、
六千年後にもない集団ですよ。
これだけ分かったらいいですね」

と言われたのです。(笑い)


また、先生は普通の人のように小便もしないし、
おなかもすかないと考えていたのです。
今も同じ考えをしています。
小便をしているのは見ていますが、
しかし、そうなのかと思ってしまうのです。

私が人生に悩み、真理に悩んで教会に来た者であったなら、
皆さんにもっとよい証ができたと思いますが、
当時十八歳でしたから、私の悩みは
いかに良心的な生活をするかということでした。

そして良心的に生活する人に会いたい、
そういう人になりたいというのが、
先生にお会いするまでの私の心の願いでした。

学校でも良心的な人とのみ友人になり、
そういう人とはいつまでも一緒にいたいし、
そうでない人は全然相手にしないので、友人は三名ぐらいでした。


私があまり黙っているので、
先生がある時
「あなたは砂利を煎じたような味だ」と言われました。(笑)
これは全く味がないという意味なのです。

というのは、長く先生に侍ってきた者ですから、
新しい人がどんどん来たら主人の立場に立たなければならないのに、
人が来ても、「ああ来たのか」、
「ああ帰るのか」と見ているだけの私を見て、
先生はとてもたまりかねてそのように言われたのです。

それからは、私は言葉が出るようになって、
今は皆さんの前で話すことができるようになったのです。
このように、私の信仰はとても単純で素朴でした。





『砂利を煎じたような味』というのは、
何とも面白い表現ですね。

しかし、お父様の完全相対に立っていたからこそ、
その後、お父様の証しをされ、
素晴らしいみ言を語られたのではないかと思います。

また、元弼先生が証しをされているように、
父親のような存在だったからこそ、
どんなことにもつまずかなかったと思います。

今は、真のお母様に対して、
多くの批判がありますが、
心の底から、『私のお母さん』
という心情を持ちさえすれば、
何の問題もないと思わされます。。。






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