金元弼(ウォンピル)先生が
真のお父様と初めて出会われた時の証しです。
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文先生との出会い
文先生との出会い
質問:最初に先生にお会いされた時のことを話してください。
私は学校卒業後の将来のことを叔母さんに相談に行ったのです。
叔母さんはそのころ先生に出会い、
霊界から啓示を受けたりして恵みの中にあり、
心が空中に浮いているような時でした。
南(韓国)から来た若い青年がいて、
真理と神霊に立脚して礼拝しているので行ってみないかと言われました。
☆
父親のような存在
父親のような存在
それは先生が北に来られて一カ月くらいのころで、
私が初めて会いに行った時は、
神の妻と呼ばれていた霊能者と、
霊山に祈りに行かれたということで会えなかったのです。
それから一週間後に初めてお会いしましたが、
若い私に対してもていねいな言葉遣いで
「あなたは思索をたくさんしますが、
中心を立ててするようにしなさい」と言われました。
私はそう言われて初めて、自分がたくさん思索し、
それも中心を立ててやってはいないことに気づきました。
先生の所に集まっていた人たちは、
キリスト教の深い霊的体験をしてきた人たちばかりでした。
そういう人たちは先生をメシヤとしてとらえていたのですが、
私は父親のような感じを受けて、
先生の言われることは何でも信じられるのです。
今もメシヤというよりは父親のようであり、
言われることは何でも信じられるのです。
時には理解できないことがあったとしても、
私の心は理解するように働くのです。
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だれかが「お前は死んでしまえ。
統一教会から出ていってしまえ」と言っても、
それを恨みに受け取らないで、
私の中にある邪心に死んでしまえと言っているので、
これは有り難いととらえるようになるのです。
ですから先生が何を言われても、
私には何も引っかかるものがないのです。
これは私の努力からというより、
生い立ちから来るものであり、私にとって幸せなことでした。
☆
砂利を煎じたような味
砂利を煎じたような味
私は先生の言われることを何でも受け入れますから何も質問がなく、
吸い取り紙で吸い取っているかのように全く反応がないのです。
かといって「これは素晴らしいです」「感動しました」とも言わないし、
質問もしないので、先生は張り合いを感じなかったのです。
それである日、先生が私に
「この集団は六千年前にもなかったし、
六千年後にもない集団ですよ。
これだけ分かったらいいですね」
と言われたのです。(笑い)
☆
また、先生は普通の人のように小便もしないし、
おなかもすかないと考えていたのです。
今も同じ考えをしています。
小便をしているのは見ていますが、
しかし、そうなのかと思ってしまうのです。
私が人生に悩み、真理に悩んで教会に来た者であったなら、
皆さんにもっとよい証ができたと思いますが、
当時十八歳でしたから、私の悩みは
いかに良心的な生活をするかということでした。
そして良心的に生活する人に会いたい、
そういう人になりたいというのが、
先生にお会いするまでの私の心の願いでした。
学校でも良心的な人とのみ友人になり、
そういう人とはいつまでも一緒にいたいし、
そうでない人は全然相手にしないので、友人は三名ぐらいでした。
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私があまり黙っているので、
先生がある時
「あなたは砂利を煎じたような味だ」と言われました。(笑)
これは全く味がないという意味なのです。
というのは、長く先生に侍ってきた者ですから、
新しい人がどんどん来たら主人の立場に立たなければならないのに、
人が来ても、「ああ来たのか」、
「ああ帰るのか」と見ているだけの私を見て、
先生はとてもたまりかねてそのように言われたのです。
それからは、私は言葉が出るようになって、
今は皆さんの前で話すことができるようになったのです。
このように、私の信仰はとても単純で素朴でした。
☆
『砂利を煎じたような味』というのは、
何とも面白い表現ですね。
しかし、お父様の完全相対に立っていたからこそ、
その後、お父様の証しをされ、
素晴らしいみ言を語られたのではないかと思います。
また、元弼先生が証しをされているように、
父親のような存在だったからこそ、
どんなことにもつまずかなかったと思います。
今は、真のお母様に対して、
多くの批判がありますが、
心の底から、『私のお母さん』
という心情を持ちさえすれば、
何の問題もないと思わされます。。。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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