2016年12月02日

労働者の友として?! 日本留学時代の、お父様の御あとをたどる!!



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私は労働者の中の労働者であり、
労働者の友達でした。
汗のにおいと小便のにおいが漂う彼らと肩を並べて、
私もまた作業現場に行って、汗を流して働きました。

彼らは私の兄弟だったのであり、
それゆえに、ひどいにおいも気になりませんでした。

真っ黒なシラミが列をなして這っている汚い毛布も、
彼らと一緒に使いました。

何層にも垢がこびりついた手も、
ためらわずに握りしめました。
垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、
私はその情けが面白くて好きでした。

自叙伝より



調布家庭教会のHPには、
お父様の足跡をGoogle Mapで訪ねる
秀逸なコーナーがあります。

調布家庭教会の副壮年部長さんが
詳しく調べておられているのですが、
ほかにも、お父様が日本におられた時の情報を
川崎家庭教会の在日の方と訪問されています。

私がブログをしていることを知り、
わざわざ資料を送ってくださいましたので、紹介します。

まず、お父様の自叙伝より抜粋します。


バージ=艀(はしけ)
主に川崎の鉄工所と造船所で
肉体労働をしました。
造船所には石炭運搬用の「バージ」と呼ばれる艀があって、
ポンポン船がそれを曳航します。

私は三人一組になって、午前一時までに石炭百二十トンを
バージに積み込む仕事をしました。

日本人が三日かけてする仕事を、
韓国人は一晩でやってのけます。
韓国人の手際のよさを見せてやろうと思い、
無条件に一生懸命働きました。



お父様が日本留学時代に「造船所での石炭運び」をされた場所である
横浜・鶴見の造船所跡の埠頭。
ここに行かれて調査しておられます。

以下、副壮年部長さんのコメントを少し編集して紹介します。


この鶴見は、お父様が働いていた時代より18年前に、
重たい凄惨な事件のあった場所であることを
ごく最近になって知りました。

それは、1923年、関東大震災後に起きた、
朝鮮人が暴動を起こしているというデマを
そのまま信じた日本人民衆によって、
多数の朝鮮人が虐殺された現場でもあったことです。

1923年当時は、日本鋼管鶴見造船所でなく、
その前々身である浅野造船所の名前でした。
そして造船所埠頭の埋め立て工事が
まだ盛んに行われていた時期でもあります。

その埠頭の埋め立て工事に多くの朝鮮人労働者が従事していました。
よく知られていることです。
そして、朝鮮人虐殺の場所として、当時の人々の目撃情報から、
浅野造船所の埠頭があげられています。


実は(ともに調査した在日の)Aさんのお祖父さんも、同じ時期、
川崎の製鉄所か、鶴見の造船所で
建造工事に従事していたという話を聞いていました。

お祖父さんは何とか静岡県熱海まで逃れ、
農家の人にかくまってもらったそうです。

一方で、同時にこの「鶴見」という場所は、
朝鮮の人たちが虐殺されそうになったのを
体を張って守った警察署の署長がいたことでもよく知られています。
大川常吉という警察官です。
大川さんへ感謝する朝鮮人の人たちが建てた碑が残っているほどです。

助けた人がいる一方、民衆による凄惨な虐殺という
きわめて重たい事態を受け止めないといけない、
とても大きな意味があるように感じました。


早稲田時代の文先生を下宿させてくれたのは、
旧戸塚町(現・西早稲田二丁目)にいらした
三橋孝蔵さんご夫妻です。

三橋孝蔵さんは、関東大震災の後、地域に声かけをして、
朝鮮の人たちを守るよう働きかけました。
実は三橋さん、東京市の民生関係の職員だったという話です。


そして、2015年春に見つけることができた品川の貧民窟。
南品川四丁目にあった大きな貧民窟の一つでは、
貧民窟の入口に木賃宿街が軒を連ねていた場所であることがわかりました。

その木賃宿の店主たちが、関東大震災当時、
多くの朝鮮人労働者をかくまい、外に出さないようにして、
食べ物をふるまっていたという話が本や記録に残されています。

そうした中のお一人が木賃宿青木屋を営んでいた吉田鎮雄さんです。
8月初め、ご存命である実の妹さんから一連の話を聞き出せました。


鶴見・川崎の場所は、かつて1941年から43年にかけ、
文先生が重労働のため歩まれた場所であり、
その18年前、大正時代にあった凄惨な事実があった場所であること、
その中でもわずかな功労が積まれた場所でもあることが少しずつわかり、
すべてがつながっているように思えました。

2014年以降、造船所跡の埠頭を初めて海から訪ねることができるようになり、
そして2015年には品川の貧民窟跡を踏査してきました。
文先生が因縁をもった地、鶴見・川崎−品川−早稲田が
点と線でつながっていたという実感があります。

2013年以降、重たい扉のカギが開けられたように感じます。
日本人にとって認めたくない、目を背けたくなるようなことがあったこと、
そして、その因縁とわずかな功労の地で、メシアが生まれて歩んだこと、
これから、その扉を押し開ける時代かもしれません。

連載:Google Mapで訪ねる主の路程
*下に参考資料を掲載しました


自叙伝にも出てくる
川崎、品川、そして早稲田の地。。。

韓国・朝鮮人を愛した日本人のいたところ、
お父様はそのことをわかっていて、
その地を愛していかれたのかな、
そんなことを感じました。

また、世間の風潮に惑わされず、
このような方たちがおられたことに感謝したいですし、
詳細に調査されたお二人の方にも感謝します。

いくつか資料を送ってくださっているので、
不定期に紹介したいと思います。




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副壮年部長さんが紹介しておられる大川常吉氏には、
こんなエピソードがあるそうです。

関東大震災のちょっといい話/朝鮮人300人の命を守り抜いた警察署長
http://www.bo-sai.co.jp/kantodaisinsaikiseki5.html

また大川氏以外にも韓国・朝鮮人を守った方がいました。

同胞「収容保護」称える銀杯保管…元田島町長の孫
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=2&newsid=14850

旧・田島町というのは、現在の渡田(わたりだ)と呼ばれる
日本鋼管川崎製鉄所のすぐ北側に所在していたそうです。

こんな記事もありました。

第2回「ふれあい館のあゆみ」
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=2&newsid=14850



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posted by ten1ko2 at 13:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする