金元弼(ウォンピル)先生の信仰サプリ
今日は、『私は神の代身者である』です。
☆
牢屋では、二つのことが禁止されていました。
たばこを吸ってはいけないことと、
起きる時間と寝る時間を絶対に破らないことです。
どこの国でもそれは同じだと思います。
たばこを吸うためには火が必要です。
もし牢屋に火をつけたら囚人が全部逃げて行きますから、
火に一香気をつけるのです。
また、脱出するためには、起床時間前に
起きて工作しなければならないので、時間を厳守させるのです。
そういう中にあって、先生はいつも刑務所の人たちの目を避けながら、
朝一時間早く起きてそれを怠らなかったというのです。
☆
先生が朝早く起きるということは、非常に大事なことでした。
そしてそれを見付けられたら大変なことになります。
ある人は発見されて、独房に入れられたこともありました。
先生にとって、身体を保つということにも意味がありますけれども、
先生の体は神の実体として人類を
救わなければならない身であると考えられたのです。
その時、この身は自分個人の身ではなく天の身であると考え、
この身を大事にし、清らかにしなければならない
という内的意義があったということを、
私たちは考えなければならないと思います。
☆
先生のおられた牢屋の中には、
いつも二十名の人たちが収容されていました。
牢屋の中で一番空気の流通の良い場所もありますけれども、
先生はそういう所には行かず、
手洗いのそばに座席を決められたというのです。
というのは、空気の流通の良い所は窓のある所で、
多くの人たちが体の上をまたいで越えていくからです。
天の身をこれらの人たちにさらしたくない、
触れさせたくない、清く保とうと思われたのでした。
外的に見れば汚い所ですが、そういう所を自ら進んで選んで、
そこで二年半という長い間生活なさったというのです。
☆
先生御自身は天宙復帰の責任を果たさなければならない、
いわば天の代身者であるという、その自覚を忘れなかったのです。
神のみ旨を成就しなければならない、神の代身者としての身なのでした。
この身は私の体ではない、神の体であるから、
その体は神殿、聖殿であるというのです。
だから先生は、御自身が神の代身者であることを悟った時に、
今一緒に生活している人たちと
区別しなければならない身であるとして対処されたのです。
窓際に眠る位置を定めてしまうと、数多くの人が出たり入ったりして、
先生の体を越えて通るというのです。
神のみ旨に添わない不義の人々に、
そういう先生の体を越えさせることを許すことはできないのでした。
だから場所は臭い所であっても、人々は先生の体を越えないのですから、
そこを眠る場所に定められたのでした。
☆
皆様は、こういうお話は心の中にそう強く響かないかもしれませんけれども、
神のみ旨を成就する中で、皆様は大山という人だったら
大山その人ではないのです。
神の代身者であり、先生の分身であるのです。
だから皆様はどこへ行っても、
「私は神の分身である。代身者である」
というプライド、あるいは自覚をもっているなら、
不義をすることはできないのです。
普通の人々と同じような生活はできないというのです。
だから、先生の刑務所での生活を見て学ぶことは、
平素から「私は神の代身者である」
ということを守らねばならない私であるということです。
☆
先生は不義なる人と一緒に暮らしても、
臭いところであっても、その身は汚さないというのです。
心情はいうまでもなく、身さえ汚れることを許さないというのです。
共産党はべッドから起き上がっただけで、
「体を動かした」と言うのです。
それで先生は、ベッドから起きないで
「私の誓い」の三番目にある”父母の心情、僕の体で汗は地のために、
涙は人類のために、血は天のために流す”ということを、
ベッドに横になったままで、足を動かしながら誓いをされたといいます。
ですから一つの場所ばかりでなく、
どういう所でもどんな形でも、お祈りはできるのです。
皆さん、聖地は教会の中ではなく、すべて外にあるではないですか。
神の心情でお祈りする所は、どこでも聖地になりうるのです。
☆
このみ言を読みながら、
私自身の『牢屋生活』を思い出しました。
すなわち、監禁されていた時のことです。
絶対に外に出ることができない、
そのような閉ざされた環境の中で、
誰とも連絡することができないので、
唯一の頼みの綱は神様でした。
しかし、神様に祈ろうとしても
とうてい祈れる環境ではありませんでした。
そして、思いついたのが、
『横になりながら、祈る』ことでした。
朝早く、寝静まっている時に、
一人布団にこもりながら、祈る日々が続きました。
こんな祈りが神様に通じるだろうか・・・
そんなことを思いながらも
無事に偽装脱会をして、戻ってくることができました。
お父様も興南の地で、同じようなことをされていたのだ。。。
そう思うと、お父様の心境を少し感じることができました。
お父様の背後に絶対に神様はおられたと感じるし、
私が監禁されていたその時にも、神様はおられた、
そのことを感じるのです。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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