2017年02月05日

彼を裁ける私なのか?! 人の悪口=「私はこんなに悪い人です」!  《金元弼先生の信仰サプリ》 



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神様から見たら、すべての人が子ども、
真の愛の眼鏡で見れば、
どんな人の欠点も目に入らないというのですが──

金元弼先生の《信仰サプリ》
今日は『神の前の私を考える』です。


興南刑務所におられるとき、
囚人の中で殴ったり苦しめる問題の囚人がいました。

誰もが『この人がいなければいいのに』
と思いながらそのまま過ごさざるを得ませんでした。

先生に解決の道を求めましたので、
先生は一度忠告をしていかれました。

しかし、先生はその後、祈ることが出来なくなりました。
暗黒の中をさまようような一週間が過ぎて、
一週間たって初めてお祈りができたといいます。


なぜ、暗黒のような日を過ごさないといけなかったのでしょうか。

実はこの悪い囚人は本当に悪いのですが、
『神の前の私』という観点で見ないといけないというのです。

「神様、私はあなたの前で、
このように善くない者です」
と自分を省みないといけないのだといいます。

「神様は、このような者を許して、
愛して、また信じて導いてくださる」
という感謝の心を持たないといかないのです。

なので、どろぼうをした者がどろぼうに対して、
「お前、どろぼうするな」
と言えないのです。

ですから、文先生は
一週間真っ暗になったというのです。


文先生はアメリカに来られて、
国を挙げて反対する姿を見た時、
次のように考えられました。

『私が、一九六四年に、
早く来ていればこんなことはなかったのに、
遅れて来たからこういう目に遭っている』


このような観点で見るとき、
私たちが、メンバーの悪口を言ったり、
リーダーの悪口を言ったり、
さらには夫婦において妻や夫の悪口をいうのは、
いったいどうなのかというのです。

人の悪口を言うのは、
神様に対して、真の親に対して、
「私はこんなに悪い者です」
と言うのと同じだというのです。



私たちは堕落性があるので、
すぐに人の批判をし、相手の堕落性を指摘します。
しかし、自分も五十歩百歩だというのです。

お父様の物事に対しての捉え方は
どこまでも、「私が問題である」というものです。
本当に素晴らしいと思います。

ですから、ダンベリーに入られるときも
アメリカを許されて、
『統一教会の本部をダンベリーに移す』
と語られたのではないのでしょうか。




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posted by ten1ko2 at 08:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする