神様から見たら、すべての人が子ども、
真の愛の眼鏡で見れば、
どんな人の欠点も目に入らないというのですが──
金元弼先生の《信仰サプリ》
今日は『神の前の私を考える』です。
☆
興南刑務所におられるとき、
囚人の中で殴ったり苦しめる問題の囚人がいました。
誰もが『この人がいなければいいのに』
と思いながらそのまま過ごさざるを得ませんでした。
先生に解決の道を求めましたので、
先生は一度忠告をしていかれました。
しかし、先生はその後、祈ることが出来なくなりました。
暗黒の中をさまようような一週間が過ぎて、
一週間たって初めてお祈りができたといいます。
☆
なぜ、暗黒のような日を過ごさないといけなかったのでしょうか。
実はこの悪い囚人は本当に悪いのですが、
『神の前の私』という観点で見ないといけないというのです。
「神様、私はあなたの前で、
このように善くない者です」
と自分を省みないといけないのだといいます。
「神様は、このような者を許して、
愛して、また信じて導いてくださる」
という感謝の心を持たないといかないのです。
なので、どろぼうをした者がどろぼうに対して、
「お前、どろぼうするな」
と言えないのです。
ですから、文先生は
一週間真っ暗になったというのです。
☆
文先生はアメリカに来られて、
国を挙げて反対する姿を見た時、
次のように考えられました。
『私が、一九六四年に、
早く来ていればこんなことはなかったのに、
遅れて来たからこういう目に遭っている』
☆
このような観点で見るとき、
私たちが、メンバーの悪口を言ったり、
リーダーの悪口を言ったり、
さらには夫婦において妻や夫の悪口をいうのは、
いったいどうなのかというのです。
人の悪口を言うのは、
神様に対して、真の親に対して、
「私はこんなに悪い者です」
と言うのと同じだというのです。
☆
私たちは堕落性があるので、
すぐに人の批判をし、相手の堕落性を指摘します。
しかし、自分も五十歩百歩だというのです。
お父様の物事に対しての捉え方は
どこまでも、「私が問題である」というものです。
本当に素晴らしいと思います。
ですから、ダンベリーに入られるときも
アメリカを許されて、
『統一教会の本部をダンベリーに移す』
と語られたのではないのでしょうか。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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