李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「神の苦痛、イエス様の苦痛、先生の苦痛」です。
☆
神はみ言によって人間を創造されましたが、その対象が堕落しました。
アダム家庭を愛の実体として創造されたのに、
追い払わなければならなかった神の苦痛を私たちは知らずにいたのです。
さらに、イエス様をこの地上に誕生させるための摂理の苦痛、
すなわち処女マリヤの体を通してイエス様を生ませた事実、
またウリヤの妻バテシバを通してソロモン王を生ませたことなど、
言い表せない苦痛がありました。
神には、淫乱のこの世からみだらでない女性を探し出すこと、
夫がいる女性を召命しなければならないことが苦痛だというのです。
☆
これもサタンの側から見れば淫乱です。
この世でもキリスト教が淫乱の汚名を着せられて始まりませんでしたか。
いつも神が淫乱の汚名を着せられてきたのです。
☆
こうして得たイエスを十字架に渡さなければならなかった苦痛だとか、
アブラハムが苦労して晩年に得た子であり、
一人息子であるイサクを刃物で刺してささげるようにさせた苦痛などは、
本当に信じられないほどの苦痛の出来事でした。
☆
このように苦痛の神様です。
ですから、神のみ言の本質は苦痛なのです。
すべては苦痛の中で語るみ言です。
旧約時代の神を見ると、いばらのやぶの中で生きておられました。
エホバはいばらのやぶの中で生きながら、モーセに会いました。
直接的な言葉では表現されませんでしたが、
このような象徴的な現象によって、
エホバの心情を表示されたと思われます。
ですから、自らご自身の苦痛を明らかに表せずに
摂理してこられた神のみ言の中には、
本質的に苦痛が内包されていることが分かります。
それゆえ、私たちが神のみ言に従おうとすれば、
だれもが苦痛の路程を歩まなければならないのです。
☆
本質的に神が分からなかったため、
神を平和と幸福と自由と愛の神とだけ考えて信仰生活をして、
全く相反した道をさまよい、
挫折するようになる場合が大部分でした。
☆
イエス様の生涯を見ても、イエス様ご自身が
苦痛と悲しみを抱いてこられた方なのに、
人々は自身の苦痛にとらわれているがゆえに
父母としての苦痛を語ることができず、隠しておかれたのです。
人々が自分のことを心配しているので、
神の苦痛を語れなかったのです。
イエス様の公生涯の期間に押し寄せてきた人々はみな、
イエス様が苦痛を負ってこられた方であるとは、
想像だにできませんでした。
栄光と、権力と、能力をもって来られ、遠からず
栄光の主になられるだろうと考えて従ってきました。
それゆえ、弟子たちにも来られた内容は通じませんでした。
過越の祭の場面だけ見ても、過越の祭の記念日は、
おいしいものを食べて喜ぶ日とだけ考えており、
イエス様の苦痛を感じる弟子がいませんでした。
そして、弟子たちはマリヤが慟哭するのを見て、
彼女を好ましくない者と考えました。(ヨハネ一二・五)
☆
私たちも、文先生に従いながらも喜んでばかりいました。
得意になったりもしました。
先生を通して刺激を受けることを願いました。
喜びや力を得ようとしたり、恵みを受けようとばかり考えました。
ですから先生が分からなかったのです。
☆
先生は常にみ言を下さる方だ、恵みを下さる方だ、
どんなことでも勝利のみされる方だ、
すべてのことに悩みや心配がない方だ、
私たちの悩みや心配を引き受けて力を下さる方だと、
このようにだけ考えました。
ですから先生は内実を語れなかったのです。
『原理講論』を見ると、創造原理から蕩減復帰原理のみ言だけであって、
先生のみ言は一言もないといっても過言ではありません。
☆
先生は恨の多い方です。
悲しみの多い方です。
先生は天上世界に隠されていた秘密を知り、
神の苦痛を知っている方ですが、
集まった私たちが幼いので、真に言いたいことを語れませんでした。
さらにこの摂理を引っ張ってきながら、私たちの知らない苦痛を抱いて、
理解できないこの世から苦しめられる、
その恨がどれほど大きいでしょうか。
しかし、先生はご自身については語れないのです。
神もそうであり、イエス様も苦痛を抱いて来られましたが、語れませんでした。
先生は、そういうイエス様のふんまんやるかたない無念な事実や、
神の悲しみを語ってくださいました。
神やイエス様の悔しく恨めしいことを語りながらも、
先生はご自身の話はできませんでした。
神の悲しみだけを語られました。
☆
私たちの苦痛は、イエス様の苦痛や
神の悲しみと通じうるものでなければなりません。
そうして、この苦痛を引き継いで復活することによって、
「私の悲しみとお前の悲しみが同じだから、
お前のほかには話す者がいない」と言われる
神の声を聞くことができるようにならなければなりません。
☆
私たち家庭連合も統一教会の時代には、
「淫乱の宗教」と批判されました。
また、お父様もそのように批判され、
今はお母様までもが、同じように批判を受けています。
そのようなレッテルを張られる立場。。。
本当に憤懣やるかたないですね。
真の父母様が多くの苦難を越えて、
今日の道を開拓していかれたことを感謝申し上げます。
そして、私たちにおいても、苦労をする道は、
全て天に繋げることを通して、
より深く心情因縁を結べることができることが
どれほど感謝でしょうか。。。
私の悩み、苦労、苦痛は
天との因縁を結ぶための
天の導きであることを知らなければならないと思います。
続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)