2017年09月30日

「真の愛」が安保だ! 天国を作るために必要なもの 《金元弼先生》天国8



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金元弼先生の「天国創建のために」の最終回。
いよいよ〆です。



真の愛による天国創建

それから、いつも問題になるのは、やはり愛の問題です。
先生は今回(1986年3月)、韓国で、六回にわたって講演をされました。
その時のお話も、真の愛について話しておられたのです。

普通の人は、共産勢力の侵略から国を守ることが安保だと考えています。
ところが先生から見ると、真の愛を守ることが安保につながるというのです。

大韓民国のすべての家庭が、本当に愛の秩序を保って、
夫婦がこの道徳律、規範を保っていけば、
それがサタンの侵入を防ぐ道になると言われたのです。

サタンの侵入する道はいろいろあります。
家庭にも、国家にも侵入するのです。
国家の道徳、倫理、これが確立していれば、
サタンは侵入できないのです。
そこから強さが出てくるのです。

ですからいつも、国の道徳、倫理が廃れると、
その国はすぐに滅亡したのです。
歴史を見れば分かります。


今年(1986年)の標語は「天国創建」です。
先生は、天国は何であるかを国民に知らせる意味で、
こういう講演をなさったと思います。

私たちもやはり、この教会内で天国をつくらなければだめです。
「天国創建」は、教会から始めなければ、どこから始まりますか?
そして私たちの家庭から始めなければなりません。

真の愛なしには天国創建はあり得ません。
ですから私たちは、いかにしてこの真の愛をもった人になるかです。

統一教会は、どこへ行っても、真の愛で結ばれた、
そういう雰囲気をつくることが、結局は先生が与えてくださった
天国創建を達成する道であるというのです。
これを知っていただきたいと思います。

天国創建のために 
1986年4月4〜7日 
ドイツ・カンベルグ修練所(日本人修練会)



お父様が語られた
「真の愛を守ることが安保につながる」
このみ言は、一見、なんでと思ってしまうような、
あるいは遠回りのようにも思える内容ですが、
逆に言えば、それが最短距離なのだということです。

そういう意味でも、
私たちが行う純潔運動も、
国家を守る最善の道だとも言えます。

これからも、声高らかに、
家庭再建運動の道を訴えていきつつ、
私たちも真の家庭を目指していきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 06:31 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月29日

好き嫌いで決めるのは信仰ではない?! 大きな願いには、大きな忍耐! 《元弼先生》天国7



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金元弼先生のみ言、
昨日の祈りについてに続き
まさに信仰のエキスを話してくださっています。
今日は、「忍耐の必要性」です。


それから、大きいことはすぐには実らないのです。

神の復帰摂理はもう何万年です。
新人(ホモサピエンス)が出てきてから、三、四万年くらいと言われていますが、
それは、アダムとエバの堕落から三、四万年くらいということだと思います。

その間、神は本当に一日千秋の思いで、ずっと耐え忍んでこられたのです。
その忍耐がなかったら、神の復帰摂理はないのです。
そうでしょう?

 耐える、忍ぶ、これがなければ、摂理というものはあり得ません。
ですから私たちも同じなのです。


私たちも目標は天国復帰とか、地上天国建設とかありますが、
それは結局、お祈りや努力もすべて必要ですけれども、忍耐が必要です。
忍耐なしには、何も結果が来ないのです。
そうでしょう? 

ですから苦労をいかに耐え忍ぶかです。
同じ苦労でも、耐えられないからと、途中でやめればそれで終わりです。
しかしいくら苦しくても、それを乗り越えて、耐え忍んでいけば、
最後の目標点に到達できます。

ですから、忍耐というのは、信仰生活に絶対必要です。
忍耐のない信仰生活というのは、あり得ないのです。

大きいことを目標にすればするほど、大きい忍耐が必要なのです。


それから、自分の好き嫌いで決めるのは信仰ではないのです。

信仰というものは何かというと、神のみ旨に従っていくことです。
自分の思うとおりにやることではなくして、
神の思うとおりにやるということ、これが信仰です。

ですから自分の考えを捨てることが信仰なのです。
自分個人を中心とした考えを捨てて、
もっと大きい神の願いに従っていくこと、これが信仰です。

今私たちにいろいろと問題が起こるとすれば、結局、これがなっていないからです。
全部そうです。問題はすべてそこに帰着するのです。

天国創建のために 
1986年4月4〜7日 
ドイツ・カンベルグ修練所(日本人修練会)



「自分を捨てる信仰」というのは、
昨日の祈りの話で、本心を研ぎ澄まして、
神様の思いを感じることに通じると思います。

人間堕落に始まって、今ある大小様々な問題も
すべて、神を離れたことによるということです。

自分の不信仰は置いておいて、
問題ばかり嘆いても、仕方がありません。

孝情を尽くしていきたい。
私の思いが、父母の思い、天の思いと
完全に一致していかなければならないと思うのです。

明日、もう一日続きます。。。





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2017年09月28日

祈りはすぐには叶わない?! お父様は神の声を聴いているのか?! 《元弼先生》天国6



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「お父様はいつも神の声を聴いているんだろうか」
そのことを質問した人がいます。
お父様の答えは?──

まずは、金元弼先生のみ言の続き、
今回は「祈りについて」の貴重な内容です。
また「祈り」つながりで、その後にお父様の証しをご紹介します。



祈りについて


皆さんはどのようなお祈りをしますか? 

祝福を受けた人は愛天燭を持っていますね。
真の父と真の母の二つのろうそくです。
それは夫婦のろうそくです。
それをともしてお祈りをするのです。
分かりますね。

それは家庭をまだ出発していなくてもやるのです。
二人が祝福を保っている場合は、
必ず愛天燭をともしてお祈りするようにします。

お祈りの時間は神と話す時間です。
神に対して、いろいろ自分の考えていることを伝え、
そしてまた、神の考えをしのびながら、お祈りをするのです。

もちろん特別なことがあってお祈りをする場合もありますが、
全体としては、神の心情をいかにつかむか、その努力です。

そして神に対して、また自分が願うことを伝えるのです。
ですから皆さん、自分の願いがはっきりしていなければだめです。

ですから神に何を願うか、何が自分に一番大切なものであるか、
それを一度紙に書いてみるのです。
そして検討してみるのです。
これでいいかどうか、いろいろ考えて検討してみて、
明確にして、それを祈るのです。

ただ、思い浮かぶまま祈るのではないのです。
それを明確にしておいて、それを祈り、
そのあとに他のものを付け加えて祈るのです。

ですから祈りは、一回だけではないのです。
たいてい祈りというものは、一回、二回祈って、
その実りが来るのではないのです。
何年間も祈らなければ、結果は来ないのです。
それが祈りです。

きょう祈ったからあすは何かある、そんなことはないのです。
ですから自分がこれから何年間も継続して祈る
祈りの内容を考えて、研究をするのです。
まず明確にして、それから、いつもそれを祈るのです。

それが基本のお祈りで、その次に、その時その時に合った
違うお祈りもあるはずですが、それは付け加えて祈るのです。

みな立場が違いますから、自分の立場において、
何が一番適したお祈りであるか、自分が考えなくてはだめです。
そして長い間、いろいろお祈りをしながらやってみるのです。
そしてそれを補充しながら、その基本の祈りの型をつくるのです。
それは自分自身のものです。

私たちは習慣的にご飯を食べますが、同じく、
お祈りというものも習慣的にやるのです。

そうかといって、お祈りをする心もないのに、
そのまま習慣的にやるという意味ではありません。
私たちが食べなければ生きていけないように、
お祈りがそれくらい必要だというものにならなくてはだめです。

天国創建のために 
1986年4月4〜7日 
ドイツ・カンベルグ修練所(日本人修練会)



昔は愛天燭や心情のろうそくというものもありました。
今は真の父母様から、天一国聖燭を伝授して頂いていますね。

ろうそくというのは、父母様が祈られた
その心情そのものとも言えるかもしれません。
それを貴重な火種として、
同じ心情圏、天の父母様と通じる境地に行くのが
祈りの目的ではないでしょうか。


さて、先日、教区の伝道部長と授受していた時に、
お父様の証しを聞きました。

「みんなお父様は、いつも神様の声を聴いていると思うでしょう?
実は、ある食口がそのことを質問したそうです。
そうしたら、お父様はこう答えられました。

『いつも神様の声を聴いているんじゃないんだ。
神様を感じるんだよ』

だから、お父様は、良心の声に耳を傾けていると思うんです。
個性完成の基準が良心の完成です。

お父様は本心のことを良心と呼びますが、
良心の絶対的な基準を高めていくこと。
このことが何よりも重要です」



なるほど、そのような祈りを通して
自分の思いではなく、良心の声を聴いていく、
そうしていけば、良心が高まるということでしょう。

食べること以上に必要だ、と言われる祈祷。
ご父母様の心情圏、神様を感じる境地に至りたいと思うのです。





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