2017年10月09日

信じるだけでは幸せになれない?! 神の愛と一つに 2つの精誠・後 《web説教》



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10.4秋夕☆


「幸せを実現する二つの精誠」として、阿部局長が
信仰基台と実体基台をわかりやすく話してくださっています。
信仰基台は「信仰の精誠」、それでは実体基台は?


もう一つの条件の「実体基台」について原理講論を確認してみましょう。

  一方、アダムが創造目的を完成するために立てなければならなかった
  第二の条件は、
  彼が「実体基台」を造成することであった。
 
  アダムが神のみ言を信じ、それに従順に従って、
  その成長期間を完全に全うすることにより
  「信仰基台」を立てることができたならば、
  彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、
  創造本性を完成した、み言の「完成実体」と
  なり得たはずであった(ヨハネ一・14)

  アダムがこのような「完成実体」となったとき、初めて彼は、
  神の第一祝福であった個性完成者となることができたはずである。

  もし、アダムが堕落しなかったならば、
  彼は前述したとおりの経路によって創造目的を完成したはずであった。

(原理講論 緒論P277〜278)



このように、み言を信じるという「信仰基台」を土台にして、
「実体基台」を造成するとあります。
まさに、「み言を信じる」精誠を土台にして、
「み言の実体」になるということが大切なゴールです。

そのみ言の実体になるためには、
み言の核心が「ために生きること」「真の愛の実践」ですから、
「愛する精誠」が必要だということです。


私たちの生活はどうでしょうか?
「信仰の精誠」と「愛する精誠」を捧げているでしょうか。

人によってはみ言を信じる精誠を捧げていながら、
愛する精誠、愛する実践をしない人もいます。

具体的には、み言を訓読していてもみ言のように実践しない人、
祈りを捧げていても為にいる実践をしない人など、
思いの世界だけで行動という実体が伴わない人です。

このようなタイプの人は、家族の幸せのために訓読したり、
家族のために祈りをささげても、具体的に家族を愛する実践をしません。


また反対に、一生懸命に実践していても
み言からずれて自分なりの心で歩む人もいます。

み言を信じて、み言に根差した正しい動機で実践しなければ、
善なる結果は現れません。

具体的には、誰かに対して愛する実践をしたとしても、
その心に要求や裁きなど自己中心的な動機があるならば、
相手にとっては愛されたというよりも干渉された、
押し付けられたとしか感じないかもしれません。

そのような実践では、良き関係を築くことはできないでしょう。


人間は堕落していなかったならば
「創造本性を完成したみ言の完成実体」になる予定でした。

しかし、堕落することによって ために生きる真の愛だけでなく、
自己中心の偽りの愛を受け継いでしまい、矛盾した愛となりました。

ですから、実体基台を立てるためには
「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てる必要があります。
それは何かというと、偽りの愛ではなく真の愛で「愛する精誠」です。

愛しやすい人だけを愛するのではなく、愛しにくい人でも愛する、
怨讐のような敵だとしても真の愛で受け入れ愛する精誠です。

イエス様の歩まれた道や文鮮明先生・真の父母様が歩まれた道も
そのような愛を投入するご生涯でした。


また、聖書歴史を見ると、不思議にも長男と次男が
争うようになることが繰り返されています。

これは、ただ単なる家庭の兄弟げんかが続いているのではなく、
堕落したアダム家庭の兄弟カインとアベルが
神側とサタン側に別れて怨讐になった姿の再現です。

ですから、歴史を蕩減復帰するために、
兄弟間で葛藤が生じたとしても一つになることが必要です。


幸せとは、一言でいえば「一つになること」です。
反対に不幸とは、「二つが対立して分かれること」から全てが出発します。

心と体の対立、夫婦の対立、家庭の対立、隣人との対立、
国家間の対立など、分かれることから不幸と混乱が生じます。

それを解決するためには、「信仰の精誠」を立てた
神側の中心人物の姿勢が重要になります。
その中心人物が「愛する精誠」を尽くすことです。

愛を投入して相手が心から屈伏するまで「愛する精誠」です。
愛を投入する目的は「一つになる」ためです。

そのためには、愛を投入して相手の心が「恨み」ではなく「許し」に変わるように、
「不満」ではなく「感謝」に変わるように、
「傲慢」ではなく「素直」な心に変わることができるように、
「与えて忘れる真の愛の投入」です。
まさに、二人が一つになることによって堕落性を脱ぐことができます。


今回の説教は、二つの精誠について解説しました。

「信仰の精誠」は、天に対する精誠であり、天の認定を頂くものです。
「あなたは神様のみに仕える人である」
と天から認められる中心人物になることが必要です。

さらに、それを土台に「愛する精誠」を通して地の認定を頂かなければなりません。
愛する精誠は、人に対する精誠です。
そして、相手から「あなたこそ神の子として相応しい」
「あなたこそ神様の似姿である」と認められることです。

天の認定と地の認定を頂くことができたら、幸せを実現することができます。
今一度、「信仰の精誠」と「愛する精誠」を捧げて、
幸せを実現する人、幸せをもたらす人になりましょう。

文責:ten1ko2



実体基台は、「愛する精誠」だということです。

堕落したがゆえに、人間関係は複雑なものとなりました。
真の愛を中心とした家族関係、
人間関係を築くことができればいいのですが、
現実的には難しい問題もあります。

その究極は、天使長がサタンとなってしまった理由、
まさに「愛の減少感」にある。。。

人間は、知・情・意の中で、
やはり、「情」が中心だと思わされます。
理論や信仰ではどうすることもできない
感情の克服が重要であるでしょう。

誰もが、真の父母様のように、
真の愛を持つことができれば、
全ての問題も解決できるのに・・・
そう感じてなりません。

まずは、「私」がそうなれるように、
神氏族メシヤの道を全うしたいと思うのです。

(さっきまでシーサープログのサーバーがダウンしてました。
直って良かった〜〜)





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posted by ten1ko2 at 16:54 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする