金元弼先生のみ言、続編です。
☆
人の過去にも関心をもつ
人の過去にも関心をもつ
私は、ここへ来て皆さん一人一人を眺め、心から好きになりました。
それは、私の率直な気持ちです。
今まではアメリカで皆さんとは距離を置いてきましたが、
今は直接お会いできるようになりましたので、
一人一人を本当に深く知ることができるように努力したいと思っています。
私たちは、教会の中で因縁をもって一緒に生活していますから、
教会に入ってからのことについてはお互いによく知っています。
しかし、教会に入る前のことについては、
よく分からない世界がたくさんあると思います。
私も同じです。
また、私たちは、先生ご夫妻に会ってからの
ご夫妻のことについてはよく知っています。
しかし、それ以前のことはよく分かりません。
ですから私たちは、今のことよりも、
自分の知らない先生のことを知りたいのです。
ところが私たちは、真の父母に対して、
自分が出会う以前のことを知りたいと思いながらも、
兄弟に対しては、それほど知ろうとしないのです。
私は親に対しては言うまでもありませんが、
皆さんに対しても、過去のことを知りたいと思っています。
それは根深く、根深く一体化したいからです。
それが分からないから兄弟の大切さを忘れることがあるのです。
☆
目に見えないものの貴重さ
目に見えないものの貴重さ
一つの例を分かりやすく話してみましょう。
一人の貧しいこじきがいるとします。
これをこじきだと思ったらそれほど関心はありません。
しかし、そのこじきの過去を調べてみると、
その親がある国の国王だったと考えてみましょう。
そうすると、ただのこじきで終わるでしょうか。
そうはならないでしょう。
そのこじきを大事にする心が出てくるのです。
そうでしょう?
☆
また、私たちのメンバーの中に気に入らない人がいるとしましょう。
しかしその人は、過去に自分の親から愛され、
本当に親孝行した人であるとするなら、
その人に対する考えがどう変わるでしょうか。
そういうことを考えてみると、今現れているものばかりでなく、
現れていない部分を知るということが、どんなに大切なことかが分かります。
先生は、北韓のろう屋から出られた時に、
ろう屋の中で食べておられた食べ物を持ってこられ、
平壌に残っていた弟子たちにお土産として分けてくださいました。
ただ有り難いと考えるかもしれませんが、
先生がろう屋の中で食べたいけれども食べないで、
弟子たちにあげようと思って持ってこられたものだと考える時に、
どんなに感謝の心になるでしょうか。
1986年5月15日 ドイツ・フランクフルト本部教会
『目に見えないものを大切にする心』
『目に見えないものを大切にする心』
☆
私たちは平面的な観点で物事を見つめがちです。
物事を立体的にみること、
平面的にみると問題がある時ほど、
そのような見つめ方が必要なのではないでしょうか。
かつて、復帰摂理のノア家庭において、
ハムがノアの裸につまずき、
心情一体化するための摂理が失敗したように、
一つ一つの現象の背後を
見つめていくことが大事なのだと思います。
続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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