2017年11月14日

そして世界の真の母に! お母様が初めて大衆の前で講演?! 《鄭中和先生》6



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鄭中和先生のお母様の証し
続編です。



世界巡回講演の出発

1992年から、真のお母様は世界巡回に出掛けられるようになり、
そのときから真のお母様の時代が出発しました。

ところで、お母様が世の中に登場されるようになったのは、
その前年の1991年9月のことでした。

日本で約7千人を集めて行われた東京大会での講演が、
真のお母様が大衆の前に立たれた最初のことでした。
そのときも、私はご一緒しました。


私たちは、ここ韓国で、真のお母様が
14人のご子女様をお生みになって育てられ、
お父様を補佐されて、常にお父様のそばにいらっしゃることが、
真のお母様の使命であるとばかり思っていました。

真のお父様には、すべて計画があったことと思いますが、
真のお母様の時代が開かれるといっても、お母様がお父様に代わられて、
そのように大衆の前で講演をなさり、大勢の聴衆を前にして立たれるとは、
私たちは夢にも考えることができませんでした。

そのときの講演は韓国語でされ、朴普総会長が日本語で通訳をされました。
そのとき、真のお母様は、大衆の前に初めて登場され、
とてもりっぱに、堂々と講演をされました。


私は、愚かにも、『これで終わりだ。』とばかり思っていたのですが、
その後、1992年4月10日に、ソウルの蚕室オリンピック・メインスタジアムで、
世界の70ヵ国からの代表を含め、15万人を集めての
「世界平和女性連合」の創設大会が行われたのです。

それが、真のお母様が大衆の前に立たれた2番目のことでした。
ですから、最初はホテルでの大会であったのですが、
2番目の大会は、オリンピック・メインスタジアムでの大会であったのです。

その日は、天気も悪かったのですが、真のお母様は、
チマチョゴリをお召しになって講演をされ、
そのお姿は、とても美しく、すてきでした。


その後、真のお母様は、韓国の国内約百ヵ所以上で同様の大会を行われ、
「世界平和女性連合」の総裁として、さまざまな社会活動を始められたのです。

そのためには、もちろん背後で、真のお父様が精誠を尽くしてくださり、
「摂理的に見て、真のお母様が立ち上がらなければならない」
と、おっしゃったので、お母様が立たれたのであると思いますが、
その後も、真のお母様が基調演説をされ、お父様が
「激励の辞」を語られながら、数多くの大会が行われました。


1992年の9月には、日本に行かれ、
久保木修己会長(当時)がいらっしゃる時でしたが、
東京ドームで5万人の大会が行われました。

そのときに、私が、また驚いたことは、お父様が、
「日本での講演は、日本語でしなさい」と、おっしゃったことでした。

真のお母様は、その大会での講演を、通訳なしで、日本語で上手にされたのです。
そのときは、私もそばに一緒にいたのですが、久保木会長が、
あまりにも喜んで、踊りを踊られたほどでした。

お母様は、日本語に詰まって、口ごもられたり、
震えたりされるようなこともありませんでした。
その会場の霊的雰囲気というものをさっとつかまれ、
集まった大勢の聴衆を皆、ご自身の懐の中に入れてしまわれて、訓戒されるのです。


その広い会場の高い舞台で、日本語で講演をされたのですが、
その後、米国を中心とした40ヵ国において、同じように講演をされました。

真のお母様は、92年10月には米国、11月にはヨーロッパで講演され、
その次にはロシアのモスクワ、オーストラリアのシドニー、
ニュージーランドのオークランド、フィリピンのマニラ、中国の北京まで行かれました。


ところで、行かれる場所ごとに、気候や文化背景、食べる物、時間などが異なります。
お母様は、それらをすべて克服されたのです。

講演の地に行かれれば、初めて登壇される時のように、
新たな心と新たな気運をもって対され、そのような路程を歩まれながらも、
『疲れた』というごようすは、全くお見せになりませんでした。


そのように、全世界のあらゆる地で講演を行われたのですが、
その後もまた、日本では、たびたび講演を行われました。

そのようなときには、私が近くに侍っていったのですが、
そのころ、日本には、まだ韓国人食口が多くなかったときでしたので、
日本の“侍る生活”は、まだ少し未熟であるとの印象を持ちました。

ですから、真のお母様のお食事などを、すべて準備はするのですが、
食事の内容が不足なときも、ままあったのです。

それで、私が一緒に巡回しながら、私は少し日本語ができるので、
そのような点を補ったりしました。

しかし、真のお母様は、そのようなときも、
不足なことをすべてご存じでいらっしゃっても、
それに対して全くたしなめることもされませんでした。

真のお母様は、食口たちが、本当に精誠を尽くしたということをご存じなので、
ご自身が召し上がる物には全くかまわれず、
「なぜこうなのか?」とは、おっしゃらないのです。

そのようなときは、むしろ、私が食口たちに向かって、
「これは何ですか? このように、あるいは、
あのようにすれば、よいでしょう?」と、言いました。
けれども、お母様は何もおっしゃらず、
できる限り食口たちに迷惑をかけないようにと考えられていたのです。



お母様が東京ドームで日本語講演をされた時のこと、
今でも鮮明に覚えています。

お母様はそれまで日本語を話す機会はありませんでした。
母国語ではない言葉を
多くの人たちの前で、堂々とスピーチするというのは、
霊的にどれだけ大変なことか、と思います。

その時のお母様のきれいな日本語、
そして、存在感。
お父様の願いに応えて
見事に勝利されたお母様でした。

その後米国、ヨーロッパでは
英語で講演されたと聞いています。

鄭中和先生の証しにもあるように、
お父様の後ろにおられることが、
お母様のみ旨のようでしたが、
お父様は先々のことを考えられて、
天の訓練を成していかれたのだと思います。

私たちも今の与えられた内容、責任分担が、
今だけのみ旨ではなく、
将来のための天の訓練だと思って、
一挙手一投足、精誠を込めることが
何よりも重要なのだ、と思わされます。

続きます。





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posted by ten1ko2 at 09:09 | Comment(0) | 父母様の路程 生活の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする