文妍娥(ムン ヨナ)様のみ言。
続編です。
☆
真のお母様は、このように語られました。
「目をあければ、今日一日、
自分が真の父母様とどのように
基準を合わせて生活できるかを考え、
昼食時間になれば、おいしく召し上がったのか、
喜ばれたのかを、まず考えなければなりません。
また、一日が終われば、
『今日はこのように生きましたが、
一生懸命努力したことはこれで、
努力できなかったことはこれです』
と振り返り、
『明日、新たに出発します』
と報告するのです。
自分はこうだった、なぜこうなのだろうと、
『私』が主語になり、
『私』に対する思いで終わるのではなく、
まず天の父母様と真の父母様に報告し、
その基準に合わせていく生活をしなければなりません」
☆
しかし、いつも真の父母様のことを思い、
努力して、真の父母様がどのように生きられたか
ということに関心を持って生活するとしても、
真の父母様について知る機会がなければ、
うまくいかないでしょう。
知らずにいながら、
「このような食事をされただろう」
などという思いが沸きますか?
テレパシーでメッセージでも来ない限り、難しいでしょう。
私たちが真の父母様の子女として生きていこうとすれば、
ただ真の父母様を信じるだけでは
十分でないというのです。
☆
最初、真の父母様と私たちの関係の始まりは、
信じるところからです。
真の父母様の生きざまを見て、
これまで成し遂げてこられた業績、
教えてくださった内容を見て、
「信じるに値する」と判断し、信じるのです。
そして、それで終わってはならず、
次は真の父母様について知らなければなりません。
真のお父様は、
「信じることと知ることは違う」
と説明されました。
☆
さらに知っているだけではだめなのです。
ともに暮らさなければなりません。
そうしてこそ、真の父母様と
愛の一体圏をなすことができるのです。
そうすれば、真の父母様と、
心情と愛において一つになり、
ともに暮らしながら、
「これが天国だ」
と感嘆しつつ過ごすことのできる
生活になるというのです。
これは、霊界に行ってからではなく、
地上でそのように感じながら
暮らさなければならないという話です。
☆
真の父母様に侍る、ということは、
信じ、知っているということではなく、
共に暮らすということなのですね。。。
最前線の時には、真の父母様を思いながら歩んだりしますが、
日々の生活の中においても、
常に真の父母様を意識した生活、
四六時中、思いをはせていかなければならないと思います。
1分1秒の誤差もなく真の父母様と一つとなる。。。
ご自分がないというご父母様。
ちょっと難しいですが、私たちも
自分がない真っ白な状態になることが必要かもしれません。
また、マイナスの感情や堕落性の思いが沸き上がる時ほど、
真の父母様に報告するくせをつけないといけないと思うのです。
〜このブログの文字が小さいというご指摘について〜
いつも当ブログを愛読して頂き、ありがとうございます。
ごもっともなご意見なので、
即変更していきたいところですが
このsesaaブログのサービスでは、
通常のサイズと拡大と、縮小の
3タイプのサイズしかありません。
大きくするとなると拡大ですが、
pc用の画面で、1行24文字までになり
一つ一つの記事がとても長くなってしまいます。
いずれ大きくすることも検討したいと思いますが、
今しばらくは、これまでのサイズのままにしていきたいと
思いますので、小さくて不自由をおかけしますが、
皆様の方で、表示を拡大するなど
工夫して頂けるとありがたいです。
*Windowsの場合
Windowsマークと;(+のキー)で簡単にズームになります
ダイヤグラムが出るので、そこで
2倍にしたり戻したりすることができます
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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