金元弼(ウォンピル)先生の講話。
先回の質問に対する続きのお話です。
☆
「堕落性を取り除く作業」
「堕落性を取り除く作業」
私たちには堕落性があるのです。
それを包帯でどんどん巻いていくと、この堕落性は出てきません。
では、堕落性を脱ぐためには、どうしたらいいのでしょうか?
それは刺激を与えなければなりません。
そうしたらこの堕落性が、「ばーん」と出てくるのです。
その時に何もしなければ、またそのまま中に入っていきます。
ですから、出た時に切り取らなければいけないのです。
この作業をしなければなりません。
☆
堕落性本性の最も中心は何でしょうか?
それは自己中心的な愛です。
私たちがお互いに、兄弟の中でも、メンバーの中でも、夫婦の中でも、
自己中心的な考えを主張し合ったとするならば闘いしかありません。
ご主人が夜遅く帰ってきたとき奥さんが既に寝ているとすれば、
苦労してきたのに気持ちが悪いのです。
なぜでしょうか?
「自分を分かってくれない」と、
自分を中心として考えたから寝ている奥さんが嫌なのです。
もし、「彼女はどんなに疲れているのだろう」と考えたときには、
彼女に対して嫌だという思いを改めるようになるでしょう。
このように、自己中心的な考えが出てきたときに、
その人の事情に立って考えることによって、
堕落性が切れるというのです。
こうして、私の中にある堕落性が一つ一つ取り除かれていくのです。
☆
今、私たちの教会の中に愛がないように見えるかもしれませんが、
そのように見えるのは、お互いに私たちが堕落性という、
奥に沈んでいるものを出してあげる作業をするからだと考えなさい。
自分では断つことができませんから、
だれかが刺激を与えなければなりません。
ですから自分がだれかに対して気分が悪くなったとすれば、
私の堕落性を取ってくれるために、
その人が私の堕落性を出してくれた恩人だと考えるべきだというのです。
私たちがお互いにそのように考えながらやっていくときに、
その人は真の意味において愛すべき人ということが分かるようになります。
「信仰生活についての質疑応答」
この質疑応答は1987年1月29日の説教
「祝福家庭の使命」の後になされたものです
この質疑応答は1987年1月29日の説教
「祝福家庭の使命」の後になされたものです
☆
金元弼先生の例題は、本当にその通りだと思ってしまいます。
家族の関係においても、また、兄弟姉妹の関係においても、
自分の堕落性が出てしまうような出来事があっても、
膿を出してくれる存在なんだ。。。
そう思えば、全てが感謝なんですね。
先日読んだ、渡辺和子さんの
「置かれた場所で咲きなさい」の一節に、
学長として、学生たちに進んで挨拶し、
笑顔で声をかけても、相手が反応しない時、
このように解釈したと言います。
「私のほほえみは神様のポケットに入ったのだと考える」
人の批判をする以上に、
そういう人を与えていただき感謝です、
という心の器を持っていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)