李耀翰(イ ヨハン:李(リ)ヨハネ)先生のみ言、
信仰生活に関する質問の回答、続編です。
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(質問二) 信仰生活のマンネリ化から脱却するには
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私たちは、自分というものを失っています。
神と自分との関係を体験できないから、結局自分を失うのです。
神と自分との関係を体験できない人は、
それを知ってはいるものの、自己を放置してしまうのです。
主管圏にいながらも、自分というものがはっきりしないために、
どういう立場でだれに所有されて、
だれの願いに存在しているかがはっきりしない。
そして、生活そのものの中で自分の価値を得られないのです。
刺激がないのです。
信仰者でも、そういう人は多いのです。
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特に職場にいる人において、失敗しやすいのがそれです。
毎日同じ雰囲気の中で仕事をやらされて、
その量が多過ぎる時は、必ず仕事に支配されてしまうのです。
仕事に支配されると、自分のほうは、ほったらかしになり、重荷になる。
それで肉的に支配され、信仰に失敗する。
動機はあっても、過程で失敗することが多いのです。
☆
だから、同じ場所と思ってはいけないのです。
いつもその場を聖別しながら、人物ならば、
きのうのあの人と思ってはいけないのです。
きのうの私だけれど、きょうの私は
だれを新しく知るべきかと、そう決意するのです。
今はこういう時だと、お父様は私たちに教えてくださいます。
この「時」を私たちは、忘れてはいけないのです。
時を教えるわけは、「あなたたちはこういう時の存在だ」
ということを教えるためなのです。
「世界」と言われたならば、
今、世界的な使命に応じているのだと思わなければならない。
しかし、その価値を発見できず、
時と自分が違うようになると、力が抜け始めるのです。
☆
私たちは、毎日同じ食口だ、同じ場所だ、
これが習慣的になってしまっている。
そこが危ないのです。
健康な人は、毎日御飯の味が違います。
同じく、情のある人は、毎日が違うのです。
情が、喜びの世界が毎日新しく開けるのです。
喜びあふれる人は、いつ会っても新しい感じがするのです。
新鮮さ、刺激があるか。
同じ場所でも希望にあふれている人にとっては、
同じ場所ではないのです。
皆さんが最初に教会に来た時、
きのう来た教会と思ったことがありますか。
いつも初めてのような気がしたでしょう。
恋しい人と会った時に、何遍も会った人と思ったことがありますか。
いつも初めて会ったような刺激を覚えます。
それは間違いないでしょう。
☆
情の世界は成長するから、数学的に、
打算的に考えるのではありません。
情でもって乗り越えないと、
量で来る仕事はやりきれなくなります。
だから、「信仰者は、どんな場面に遭遇しても、喜び、感謝せよ」
と言われるのです。
「そうすれば、勝利する。心配が先に出てくると、
これは情的立場ではないのだから、いつも祈れ」と言われるのです。
☆
確かに、人と出会うことも、
新鮮でないといけないですね。
当たり前のように出会う人たち、
しかし、どれだけ貴重な一人一人かしれません。。。
今日は少し違った意識をもって、
生活していきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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