李耀翰(イ ヨハン:李(リ)ヨハネ)先生のみ言、
食口の信仰生活に関する質問の回答、続編です。
☆
(質問三)
霊人体が成長するために、
どのような交わりが必要でしょうか
☆
例えば、人と会った時、この人とどう付き合うべきかと、
いつも自分に反問して暮らすのです。
いつも反省しながら暮らさなければ、
仕事に支配される僕になるのです。
ほとんどの人が、そうなのです。
☆
ぶどう園の例え話を知っていますか。
朝九時から来て働いた人と、午後三時から働いた人がいて、
朝来た人にも、あとに来た人にも、
五時に帰る時には同じ金額を払ったのです。
すると、朝来た人が不平を言ったのです。
「人をばかにするにもほどがある」と。
しかし、主人の立場では、後者に、
「これは気の毒」と思って善を施したのです。
彼はどれだけ感謝して働いたか。
朝から来た人は、やむを得ず「早く終わらないかなあ」と思うし、
あとの人は、「仕事にあぶれるかと思っていたのに」と喜んでやったというのです。
主人は、その情を見たのです。
情の世界を見たのです。
きっと聖書は、こう解明しなくてはならないのです。
時間さえ過ぎればお金をもらえるのだと、
やむを得ずにやった人と、喜んで二時間やった人とを
神様が見た時に、喜んで二時間やった人のほうに愛が行くのです。
その人に祝福を与えたい、これが親の愛、愛の心です。
☆
だからこれは信仰の本質を言っているのです。
主体者に対してどれほど引かれて暮らすか、
どれほどみ旨を喜んで暮らしているか、これが本質なのです。
この心を奪おうとするのが、サタンの側です。
私たちの霊人体は、どういう時に成長するかといえば、
希望に燃えてみ旨に刺激を受けている時は、
霊人体が成長しているのは間違いないのです。
そういう時は、分別しやすく、未来を知るのです。
そうでない人、線のゆるんでいる人には、
急にびっくりするような事件が起こるのです。
それが戒めなのです。
そして、「自分と主体者との関係をはっきりせよ」と、
気づかされるのです。
☆
統一教会の人たちは、最初精神的刺激を受けた動機があるから、
それをゆるめると、自分自身もそう感じて、体も重くなり、変なのです。
夢もおかしいのです。
追いかけてくるようなものを見る。
それを放置しておくと、御飯の味が変になるのです。
病気だからといって休む。
病院に行くと、「病気ではない」と言われるのですが、
その時に、すぐ敏感に悟らなくてはいけないのです。
大先生は、「私たちにはアンテナがある」と言われるのです。
そのアンテナにごみが付いたら、すぐ分からなければいけないのです。
☆
兄弟関係においても、四位基台的関係において
霊人体は成長するようになっています。
カインとアベル関係において、(関係が悪くなれば)必ず力が失われます。
主体と対象関係によって、必ず力が来るのです。
兄弟をいかに貴重に思うか。
貴重に思える時は、相手が相手と見えないで、
神から派遣された者に見えるからです。
そこに四位基台ができ上がるのです。
だから、目に見える人を神となったその人と思って付き合わないと、
相対基準とならないのです。
そういう兄弟には反発がない。
兄弟を無関心に見ないのです。
そういう人は、草一本でも、無関心に見ないのです。
☆
神様を中心に物事を見つめる
李ヨハネ先生だからこそ、
与えられるものが大きいと思わされます。
家庭が壊れ、人間関係が希薄になったこの時代、
私たちも、常にアベル・カイン、人との関りで一喜一憂し
難しさを抱えてきました。
本質が問われる時代となり、
内面を成長させ、本物になっていかなければならないと
切実に感じます。
そのために何より大切なのは、
神様の目で見て、神様の体となって愛することなのかと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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