李ヨハネ先生のベストアンサー
食口からの質問があと2つ残っていました。
今回は、信仰基台・実体基台に関する内容です。
☆
(質問十)生活の中での信仰基台や実体基台ということが、よく分かりません。
兄弟間での葛藤や煩悶は、どうすればよいのですか
☆
信仰基台と実体基台の話というか、質問はよく出てきますが、
これは、合致していなければならないのです。
「原理」の実践生活が実体基台です。
信仰基台と実体基台は、二つではなく、一つなのです。
☆
信仰とは、主体者を悟ったとか、み言を悟ってとか、
何かポイントをつかまえたということで、
分かったのだから責任があります。
責任を果たすこと、それが実体基台です。
自分が「原理」を実践して、それを繁殖せよということなのです。
兄弟に繁殖せよ!
知ったそのものを、善ならすぐ繁殖しなければならないのです。
善を繁殖しない者は、打たれます。
だから霊的に讒訴されるのです。
「なぜお前は、それだけ偉大な理念を知りながら、
そんな生活をしているのか」と、祖先はほっておかないのです。
知らずにいる時は、憐れみをもたれますが、
知った場合でも、知らない時と同じ生活をすれば、
霊界から恨まれるのです。
☆
実体生活には責任があるのです。
実体基台をしっかりもてば、存在する環境の中で現れなくてはならない。
私たちの生活の中に自分の主体者がいるのです。
カインもアベルのアベルであり、
アベルもカインもアベルであるというのが信仰です。
その上で、お互いに補っていくと情が復活されていきます。
何か価値を悟るのです。
それが実体基台、受肉するということです。
私は、あの人と葛藤したんだけれど、葛藤する中で
自分も何か再発見した、そこで結ばれた因縁、
ヤコブとエサウが会った時に、ヤハウェと会ったごとく喜んだのです。
ヤコブはエサウに告白し、その時の実体基台も
長く時間をかけて積み重ねてきたのです。
僕ではないのに僕生活をして、僕を主人のごとくにしたのです。
☆
私たちの生活の中で、何か葛藤する雰囲気もあるし、
合う面もあるし、それを自分によって影響し合いながら、
負債にならないように、何か環境にためになりながら
通過していかなくてはならないのです。
引っ掛かってはいけない。負債を与えながら、
その環境を通過することです。
負債を受けずに、自分が負債を与えるようにするのです。
☆
信仰基台までは迫害がありますが、実体基台には迫害がないのです。
あってもそれは、実体基台を強くするためであって、
もっとそういう中で情的に深くつながり、
そういう中で結ばれた者は、永遠に離れられないのです。
だから私たちは、信仰基台と実体基台を結ばせるための
環境であるということになってくる。
ヤコブの二十一年間の路程は難しく、悲しい路程でしたが、
それは永遠のイスラエルとして、祖先として光になったのです。
だから私たちの環境がいくら悪くても、
それは永久性の価値を含めて与えるために、という自覚をもてばいいのです。
(月刊『聖徒』1975年1月号〜4月号掲載)
☆
要約をすれば、
実体基台というのは、
善の繁殖、ということでしょうか。
お母様は式典のテーマで
「天への孝情、世の光たれ!」
と宣布していかれます。
これは、信仰基台と
実体基台のことを示しています。
天への孝情を持ち、
天と一つになるならば、
その心情を中心として、
実体基台を結ぶようにしなさい。
世の光となりなさい。
そのような意味なのだと思います。
そして、アベルカインの葛藤をなくすためにも、
孝情の重要性を感じるのです。
*李ヨハネ先生のお名前について:
李耀翰と書いて、イ・ヨハンというのが正式なお名前ですが、
日本では、李(リ)ヨハネ先生としてもお馴染みです。
ご父母様が、文鮮明(ムン ソンミョン) 韓鶴子(ハン ハクジャ)であるように
元老の方々のお名前についても、日本語読みではなく韓国語読みに変えるべきであるかとは思うのですが、
このブログでは、シリーズとなった《李ヨハネ先生のベスト・アンサー》で紹介するに当たり、
親しみを込めて李ヨハネ先生とお呼びしています。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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