本日は、千葉幕張メッセにおいて、青年学生の1万名大会が行われます。
成功をお祈りし、こころからエールを送ります。
さて、今日紹介するのは、金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「自己犠牲の愛によって脱ぐ堕落性」の続きです。
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《自己犠牲の愛があればすべて可能》
《自己犠牲の愛があればすべて可能》
イソップ物語の中に、猫の首に鈴を付けるという話があります。
ある鼠(ねずみ)の氏族がいて、
毎日のように氏族の一員が猫に食べられていきました。
そこで氏族の長は会議を開き、氏族たちが
それぞれ意見を出しましたが、結論が出ません。
その中で、氏族の長が「猫の首に鈴を付けたらいいのではないか」
とアイデアを出しました。
猫が動けば鈴の音がするので、
鼠は逃げられるから犠牲にならないで済むというのです。
鼠たちはその意見に賛成しましたが、
だれが猫の首に鈴を付けるかが問題となりました。
自分が鈴を付けにいこうという鼠がいないのです。
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私たちは原理を聞いていますから、何かあれば、
本心が私たちにどうしなければならないのかという答えをくれます。
私たちが堕落性によって間違ったことをすれば、
途端に私たちの本心が分かります。
分かるけれども本心のままにやれないというのは、
「自分のために……」というものがあるからです。
☆
今まで「自分は自分のために存在する」と考えてきましたが、
それは人間が堕落したあとの性質なのです。
ですからこれは早くなくさないといけないものです。
これからは「ために生きる」自分にならなければなりません。
そのためには「自分のために……」というものが
犠牲にならなければいけないのです。
犠牲になるとは、否定されるということです。
それがすべての解決の道になるのです。
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話せなくなった私をサタンから救うために、
先生がメシヤという体面を捨てて、
涙を流しながら語ってくださったように
(※先回の記事参照→こちら)、
自分を人のため、神のために犠牲にしていく愛があればすべては可能になるのです。
リーダーとメンバーとの関係、夫婦の関係、また親子の関係においても、
原理がこうだからこっちが正しい、あっちが正しいと、
常に私たちは頭で考えて、涙でもって話すことができなかったので、
問題も解決されなかったのです。
しかし、原理より愛が優位です。
神と真の父母が人類を愛し、私たちを愛してくださったように、
親の心で愛しましょう。
1989年5月24日 ドイツ・カンベルグ修練会(祝福婦人集会)
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頭ではわかっていても、
自分を優先させてしまう。。。
ネズミとネコの例え話は、
本当に堕落人間の心根を
うまくついているものですね。
自己中心の思いを優先することなく、
本心に、神様の願いを忠実に
歩んでいく者になっていきたいです。
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