金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
続編です。
☆
勝利の喜びは神と真の父母に帰す
勝利の喜びは神と真の父母に帰す
最後にお話ししたいことは、
常に神と真の父母を中心とするということは、
いかなる意味であるかということです。
文先生はいつも私たちに
「自分というものを先に立てないようにしなさい」と、
耳が痛くなるくらいに言われています。
その意味を分かりやすく話してみましょう。
例えば、私たちが何かをしてそれが成し遂げられたとします。
あるいは自分が計画したある目標が達成されたという時に、
私たちは「ついに成し遂げた」と、とても喜びます。
その時に「これは私がやり遂げた」
と言うことは間違いではありません。
しかし「私が成した」背後には、だれがいたのでしょうか?
そのような時には、神と真の父母の助けによって
それが成されたということを忘れてはいけません。
それが、自分を中心としたものではなく、
神と真の父母を中心とした考えです。
☆
例えば、スポーツの国際競技などを見れば、
チャンピオンが金メダルを受ける光景を目にします。
そういう時にその人たちの心境を聞いて
「勝利の喜びを最初にだれに伝えたいですか?」と尋ねるならば、
「私に」と答える人がいますか?
「自分をこのように導いてくれたコーチに」、
あるいは「愛する妻に」、「父母に」、
そして「自分の国に」と答えるでしょう。
自分に帰する人はだれもいません。
「自分に」と言うのは、おそらく最後になるでしょう。
そのように勝利の喜びを、自分が勝利するように導いてくれ、
心を尽くしてくれた人々や団体にささげるのです。
チャンピオンがそのように勝利の喜びを
他の人々にささげたならば、
それを受けた人はその喜びをどうするでしょうか?
例えば奥さんがそれを受けて、
金メダルをかけてもらったらどうするでしょうか?
「これはあなたのメダルです」と、
それをまた夫にかけてあげるでしょう。
☆
ですから私たちも勝利の喜びを自分に帰するのではなく、
自分をそのように導いてくれた神と真の父母、
そしてアベルやメンバーに帰した時には、
その喜びがなくなるのではなく、
増えて返ってくるということを忘れてはいけません。
物理的な力は、あげると減って返ってきます。
しかし愛の力は絶対に減らないのです。
☆
例えば、文先生が何かを勝利された時、
もし神がその栄光を受け取ったらどうされるでしょうか?
もちろん神が文先生を助けられたのは事実ですが、
文先生が責任を全うされなかったとするならば、
その勝利はもたらされなかったのです。
ですから神は「これはお前の勝利だ」と言って、
その栄光に追加して文先生に返してあげるのです。
そのように、文先生は常に、一つの勝利を成すごとに
神のことをお考えになりました。
☆
私たちもある目標が達成された時には、
「神と真の父母と、私たちのアベルと兄弟姉妹と、
そして家庭の子供たちと相対者が助けてくれなかったとするならば、
どのようにしてこれを成し遂げられただろうか?」
と考えて、すべての栄光を返すようにしましょう。
常に、私を勝利するように導いてくれたすべての協助者と、
その内容を知ることが大切です。
それを知って、その人たちに栄光を返すことが重要です。
それが神と真の父母を中心とするということの意味です。
もし勝利を自分に帰す時にはどういうことになるでしょうか?
周りの人たちは讒訴するでしょう。
なぜならば、「私があなたを助けてそうなったのではないですか。
私が助けた分け前を返してください」ということになります。
その分け前を返さなければどろぼうだと考えるのです。
☆
不足な点は自分が責任を負う
不足な点は自分が責任を負う
それでは勝利できなかった場合はどうなるのでしょうか?
「それは神と真の父母の責任です。
私をよく助けてくれなかったからです」
と不平を言うことができますか?
それは神と真の父母を中心とする考えではありません。
そういう時には、「神と真の父母は、
すべて私が勝利できるようにしてくださったけれども、
私が十分でなかったためにこうなってしまった」
と考えなければなりません。
☆
そのように、責任を自分で取るのです。
私のために神と真の父母の体面を立てることができなくて
申し訳ないと考えるのが、神と真の父母を中心とする考え方です。
また「メンバーが私をよく助けなかったからできなかったのだ」
と考えないで、「私がメンバーの面倒をよく見ることができなくて、
彼らが私を助けることができなかったのだ」ととらえるのが、
神と真の父母を中心とする考え方です。
そういう心をもって静かにメンバーを呼び、
神と真の父母の体面を考えながら、
「もっと責任を果たすようにしましょう」
と話してあげることがとても大切です。
そうする時に、メンバーは私たちを讒訴することができません。
責任を果たすということは私一人ではできません。
兄弟姉妹、人を通してやらなければならないから問題になるのです。
もし自分一人でやるとすれば何も問題になりません。
ですから、人のために尽くすということが
何事においても非常に重要となってくるのです。
☆
このような修練会は、いつでもあるわけではありません。
今後、四十日という時間を取ることがとても難しくなります。
ですからこの期間を有意義に用いて、
皆さんがここで感謝した心をずっともち続けていくようにしてください。
1991年9月12日
ドイツ・シュミッテン修練所(四十日修練会)
ドイツ・シュミッテン修練所(四十日修練会)
☆
昔、入教し、学生部に入ると、伝道伝道に明け暮れました。
その時、『伝道勝利者の証し』ということで、
頑張った兄弟たちが証しをしているのですが、
みんな栄光在天するわけです。
「自分が頑張ったのに、
なんで神様と真の父母様のゆえなの?」
とても不思議で仕方がありませんでした。
本当に幼かったんです。。。
「栄光在天」は私たちの伝統です。
口先だけでするのではなく、本当に神様に
栄光も喜びも帰していくと、
とても満ち足りた気持ちになります。
何よりも私たちの真の父母様ご自身が、
全ての栄光と勝利を
天の父母様にお返しし、天の父母様ゆえである。
そのような思いをいつも持たれているのですから、
私たちも見習っていかないといけないですよね。。。
そして、勝利できなかったときは、
誰かのせいにするのではなく、すべて自分が責任を取る。
こういう積み重ねが、私たちの心情を神様に
近づけていくような気がします。
ですから、私たちは、勝利された真の父母様と
「ウリヌンハナダ」「一つになる」、
そのことを意識することが何よりも重要だと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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