10月は、解放と祝福の月でした。
今日は、ハロウィンですね。
また、昨日は、6500双の祝福記念日でした。
30周年、おめでとうございます!!
昨日の金元弼(ウォンピル)先生のみ言は、
「喜びすぎると失敗しやすい」ということ。
今日は、その続き。
さて、お父様の場合は???
☆
反対に寂しい時にはどうしたらいいでしょうか。
寂しいというのを、一つの対象の立場
あるいはマイナスの立場として見てみましょう。
その時には、プラスの立場を見付けなければいけません。
人間は神の前、真の親の前では、愛する子供の立場です。
その子供を苦しめて喜ぶ神もなければ親もないのに、
なぜ愛する私たちにこういう苦しみを
与えなければならないのだろうか、
こういう寂しい境地に
追い込まなければならないのだろうかと考えてみるのです。
それはそういう蕩減の道を通じて、もっと大きな恵みを与えんとする
神の愛があるからこそだということを考えなければいけません。
寂しさや苦しさを感じることを蕩減しなければならない
という条件が私たちに提示されたのです。
神は、子供にその蕩減を払わなければならない
条件があるのだから仕方がないのです。
しかしこれを勝利したら、神は最も大きな愛を
与えようとして待っておられるのです。
そのような神を思うと、ただ一方的に私は死にたい、
もう苦しくてたまらないという考えに走らないで、
神はもっと大きな愛を私に与えようとしているのだという
神の愛を感じて、私たちは望み、
希望をもつことができるようになるのです。
☆
それゆえ、私の心がプラスの立場に立っているときには、
早くマイナスの立場を考えなさい。
マイナスの立場に立っているときには、
早くプラスの立場を考えなさい。
マイナスの立場に立っているときには、
必ずプラスの道を見付けなさい。
そうすることによって授受作用するのです。
☆
今お話ししたようにするならば、喜びの中にあっても感謝しながら、
神がこのようにして苦しまれたので、
私に恵みや喜びが来たのだということを考えるときには、
喜んだ後に寂しいと感じることはありえません。
そして、いくら苦しいことがあっても、死にたいことがあっても、
このような考えをもつとするならば、
神の恵みを見付けることができます。
授受作用できずに、喜んでばかりいたら力が全部消耗するし、
また悲しんでばかりいたら、悲しみで全部の力を消耗し、
何もなくなってしまうのです。
☆
世の中には、そういった例がたくさんあります。
山登りは非常に困難が多いけれども、
登ったときの喜びを考えながら登ります。
そして下りるときには、注意深く登った心で
下りるとするならば、失敗しないのです。
そういう心をもたないで、
そのまま下りていったら失敗しやすいのです。
転落することがあるのです。
☆
お金がなかった者に、急に大きなお金ができると、
それによって人は失敗しやすくなります。
ですから、貧しい人がお金持ちになったときには、
お金のない人のことを考えて、
初めてそのお金を維持していくことができるのです。
☆
皆さんが四十日の蕩減条件を立ててお祈りをしたとしましょう。
四十日を勝利するのは非常に難しいのですが、
勝利した時には大きな喜びを得るでしょう。
その時に失敗しやすいのです。
喜びがもたらされる前の、
四十日の苦しみの過程を考えないからです。
それを考えながら喜びを享受するならば、
絶対にそんなことは起こりません。
☆
教会草創期のメンバーたちは、恵みに、
真理に触れてよみがえった心持ちで、
その喜びのままにどうしようもなくて駆けつけてまいりました。
そして伝道は統一原理を語るというよりも
「メシヤが来ました」と言って伝道するのです。
そういう喜びは必ず心の中に秘めておかなければいけません。
喜びを与えるために今まで苦しまれた
神を考えながら喜ばなければいけないのです。
でないと、ややもするとそういった失敗を起こすことがあるのです。
喜びにあふれていたから、
先生の言うことをよく受けとめて聞けなかったので、
家庭や教会からたくさんの迫害を受けるようになったのです。
そこでメンバーはその蕩減を受けるのですが、
その上、メンバーをリードしている先生が
すべての蕩減を受けるようになったのです。
お分かりですね。
☆
これから皆さんに難しいことがあったり、
あるいは喜ばしいことがあったりしたときには、
いつも授受作用の原理を頭に思い浮べてほしいのです。
私たちは喜ぶときには、躍り上がるように喜び、
悲しいときには人が見て
すぐ分かるように表情に出しますけれども、
先生をずうっと見てまいりますと、
先生はそういうことがあってもなかなか表されません。
先生に良い報告をした人が、“こんなにいいことなのに、
先生は喜ばれないのかなあ”と思ってしまうほど、
本当に無感覚のような様子のときがいくらでもあります。
しかし、何日か後になってみると、
そのことを人の前でお話しするのです。
それを見て、“ああ、先生は
非常に喜んでおられたんだなあ”と分かるのです。
☆
反対に悲しいことがあっても、
先生は全然それを表さないで黙っていらっしゃり、
かえって喜ばしいことを話されるのです。
マイナスの心のときに、
先生は意識的にプラスの心に誘導しようとなさるのです。
ですから先生はそれほど感激も見せず、
またそんなに悲しい顔も見せないのです。
それで先生をいつも眺めていますと、何も語らず、
古い苔の生えた岩のような感じがします。
先生は本当にたくさんの事情を抱え、
感情を抱えておられますけれども、
それを表さないので非常に重く見えるのです。
☆
山登りの例えなど、
とてもわかりやすいアドバイスですね。。。
寂しい時を乗り越えるお父様のことを思ったら、
興南のお父様を思い出しました。
「神よ、大丈夫です。
私はこんなに元気ですから心配しないでください」
そのようなお父様の精神は、
マイナスの立場でも、
プラスを見つけていかれた、
貴い道であったのでした。。。
真の父母様は神様の実体ですから、
真の父母様が歩まれた道は、
まさに神様が今まで歩まれた道である、
そのように解釈してもいいのではないでしょうか。
そして、私たちは子女の立場ですから、
親が歩まれた道を相続する立場です。
苦しい時、また逆に恵みを受けた時、
このみ言を思い出していきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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