2018年10月19日

子供に教えようとしてはいけない?! 愛情を伝える教育 《家庭力up↑講座》



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久しぶりになりますが、
多田先生の「家庭力アップ講座」
から、紹介します。


「家庭力アップ講座」に参加した母親の体験談です。

「2日間の家庭力アップ講座に参加した時のことですが、
1日目の朝に家を出る時、小学校1年生の娘が
『母さん、どこへ行くの?』と聞いてきました。

随分私が出かけるのを嫌がっているようでした。
まるで今日はどこにも行かないでほしいとでもいう感じでした。

2日目の講座に出かけようとしたとき、
娘は『母さん、またどこへ行くの』と聞いて来ました。

私は、講座で学んでいたので
『講座の先生が言ってたんだけどね、
親の愛が子供に届いていないんだって。
だから、母さんの愛情が
あなたに届くようにするため勉強に行くんだよ』と言いました。

すると娘は
『そうだよ母さん。その通りだよ。
しっかりと学んできてね』と言って私を送り出してくれました」

小さな子供であっても親の心を良く理解しているのですね。

どうしたら、親の愛が子供に届くのかをしっかりと学び、
「真の愛」を身につけることが出来る良いチャンスです。



子供の心が「育つ」教育

学校では、算数や国語、理科などを「教える」ことが中心であり、
家庭では、子供が「育つ」環境を
どうやってつくるかということが中心になります。

明確に分けることは出来ませんが、
「教える」責任は学校にあり、
子供が「育つ」責任は家庭にあるわけです。

親は子供に比べて、経験や知識、失敗談、
成功例をたくさんもっているので、
どうしても「教えなければいけない」と思いがちです。

子供の「育つ」環境づくりは後回しになり、
子供に「教える」ことが中心になってしまうのです。

今までは、教える教育になる、傾向性があったようです。

すると、子供は「何でも教えてもらおうとする」
癖がつきやすくなるようです。
そして、依頼心が出てきてしまうのです。
ですから教えることで、考える力がつきにくくなるわけです。


ですから、家庭の責任は、
「子供が正しく育つ環境をつくるところにある」ことになります。

親が子供に「教える」という観点に立った場合、中心は親になります。
教えている側の親の心が満たされることが多いものです。

しかし、子供に教えようとするので、
子供がそのことが理解できないでいると、
いらいらして「分かったの? 聞いているの!」
と怒ってしまうことも多いでしょう。


それに対して、子供が「育つ」という観点に立てば中心は子供になります。
家庭での親の生き方が子供の育つ環境を作ることになります。

子供は、親の後ろ姿を見て育つとよく言います。
実際、農家や商家などのように、家庭で親の働く姿を
見て育った子供のほうが、そうでない子供より、よく育つ場合が多いのです。

子供がよく「育つ」には、子供の心が愛情で満たされなければなりません。
ひたむきに生きる親の姿を通して、子供は親の愛を感じ取っていくのです。

理想家庭を目指して一生懸命歩む親の姿、親の努力自体が子育てです。
子供の心が育つのは、家庭を理想家庭にするために
親が一生懸命努力することではないでしょうか。


そのためには「愛情の伝え方」を学ぶ必要があります。

ですから、「教える」ことももちろん必要ですが、
ややもすると、相手の行動だけを変えようとしてしまいます。

学校や塾に行かない子供を無理に行かそうとしたり、
勉強をせずにテレビやゲームばかりをしている子供を
勉強するようにさせようとしたり、
相手の行動を変えさせようとすることが多くなります。

しかしそのように、行動を変えさせようとすると、
相手はなかなか思うように行動してくれないのです。

そんな時、子供に対して悪い印象が
親の中に植え付けられてしまいます。


父と子の例を一つ紹介します。

「息子が中学生のときでした。
たびたび勉強せずに遊んでいたので、
『テレビやゲームばかりやっていて勉強しないと、
駄目な人間になるぞ。
親の気持ちが分からないのか』と怒ったのです。

すると息子が、『お父さんは自己満足で、怒っているだろう』
と言い返しました。

『親を馬鹿にしているのか』と声を荒げると、
息子は『お父さんは怒ったから気が済んだだろう。
怒られた僕の気持ちはどうなるの』と言うのです。

そのときはすぐには、子供が言ったことが理解出来ませんでした。
あとでじっくり考えたとき、息子の言うとおり
「自己満足」だったと悟りました。

子供は、親の動機をよく感じているのだと分かりました」


また、講座でのある感想には、

「本当に自分が行動してきた事が、
いかに相手に対して愛が届いていなかったか、
押しつけであったか、
また自己満足であったかをよくよくわかりました」

というのがありました。

親は自分の気持ちをぶつけただけであって、
子供に何のよい影響も与えなかったのです。
「教える」ことは、意外にも自己満足に陥りやすいのです。


子供は、親の動機を見抜く天才です。
どんな素晴らしいことを親が話したとしても
本当に子供を信頼していなければ、
すぐに見抜いてしまうのです。

私たち親は、よく「お前のことが心配だから怒っているのだ」
とか子供に強く言いますが、
親から「心配だ」と言われると子供の多くは「自分のことを信じていない」
という親からのメッセージとしてとらえてしまいます。

親の心を子供は、鋭く見抜いてしまうことが多いのです。

多田聡夫先生〜家庭力アップ講座〜
第1章 序論より



小学1年生の女の子の言葉、
ドキッとさせられますね。
うちの子供たちに聞いたら何て答えるかな、
今度試しに聞いてみようかな、思わされました。

先日、ある1800双の大先輩から、
こんな証しを聞いたことがあります。

「妻がアメリカで活動している時、
ある36家庭のサモニムが語られたみ言で、
とても印象に残っている言葉があるんです。

それは、
『子供さんたちと
なんでも話せる関係をもたないといけないよ』」

この先輩は、いろんな食口たちと会う度に
いつもこの話をするそうです。

「家庭は愛の学校」
教えることよりも
愛することを先立たせていきたいです。





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2018年10月18日

お金は役に立たない! 霊界でこれがないと大変なものとは?! 《浅川先生》



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浅川先生の講話
「霊界を知らなければならない理由」
から続編です。



霊界での真の愛の力

さて、霊界に行って、何が一番生活のために必要なのでしょうか。

この世で一番大切なものとは何でしょうか。
衣食住が重要ですが、お金がなければ、この世では生活することができません。

お金がなければ、食べ物を買うことができません。
着物一着買うことができませんし、
ましてや大きなお金がなければ良い住居に住むことはできません。

そのため人は出世しようとし、良い会社に入って、多くの給与を得ようとします。
その意味では、この世ではお金というものが重要な要素を担っています。


では、霊界ではお金は役に立つのでしょうか。
食べたい物、着たい物、住みたい家、
それはお金で得ることができるのでしょうか。

ここが重要なのです。
霊界ではお金は全く役に立ちません。

お金があっても食べ物の一つも手に入らず、
服の一着も手に入れることができません。
車も買うことができません。
ましてや住居などは造ることもできません。

では、何があったら食べ物を手に入れることができ、
何があったら着る物を手に入れることができ、
何があったら良い住居に住むことができるのでしょうか。


このお金に代わる大切なものとは何でしょうか。
それが真実の愛というものなのです。
真実の愛がお金に代わるのです。

(まこと)の愛だけが食べ物を得る力になります。
真の愛が服を作る力になります。
真の愛が住居を得る力になるのです。
実に霊界は、真の愛がすべての力になるのです。

ここであえて「真」の愛と言っているのは、
霊界に行って「役に立たない愛」と、
「役に立つ愛」の二つがあるからです。

世の多くの人は「人を愛した」とも言い、
「愛し合った」とも言います。

愛し合えば霊界に行って、それが役に立つのでしょうか。
立ちません。
愛すればいいというものではないのです。

真の愛でなければ、霊界に行っては着物一着も手に入らないのです。


では真の愛とはいったい何でしょうか。
人のために尽くす、与えるということは、どちらも愛ですが、
「真」がつくかつかないかで違いがあります。

尽くしたことを忘れ切る愛を真の愛と言います。
しかし、尽くしたことをしっかり記憶しながら見返りを要求し、
尽くしたことを強調し、見返りがなければ怨(うら)みに変わってしまう、
愛しながら怨みに変わる、愛しながら憎しみに転換していく、
このような愛は真の愛ではありません。

お金で言えば偽札(にせさつ)なのです。
偽札も本物の札も形は似ていますが、
一方は物を買うことができ、一方はそれを使えば犯罪になります。
だましたことになります。

偽の愛と真の愛。
真実その人の幸せだけを考え、
尽くしながら忘れていくこの愛を、真の愛といいます。

この真の愛だけが物を生み出し、食べる物を得させ、
生活の最高の力になるのです。

その意味においては、霊界の生活を深く考えるならば、
この世で生活しながら、真の愛を体得する、
真の愛を実践するためにお金を使い、知識を使い、技術を使い、
自分の命と生涯を真の愛の実践につなぐことが大事です。

真の愛が自分自身の「心根」になっていくことが霊界を見据えた、
天国に行くための人生であると考えられるのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第一章 霊界を知らなければならない理由
 


私たちはとかく目に見えない物より、
目に見える物を追及してしまいがちです。
それでも愛が重要であることは知っています。

イエス様は「神の国と神の義を求めよ」
そのように語られました。

すなわち神様を求める生活をしなければならないし、
神様が与えてくださった愛、
すなわち、真の愛を実践する生活を
何よりも心掛けないといけないと思います。






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2018年10月17日

イエス様の恨(ハン)とは?! 〜心の整理ができないときに〜《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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昨日は、心が落ち着かず、
なかなか責任分担で思うように行かないこともあり、
悶々としていたのですが、
李ヨハネ先生のみ言を通して、
方向転換できました。

イエス様のお話です。


  時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。

  イエスは彼らに言われた、
  「わたしは苦しみを受ける前に、
  あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
  あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、
  わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」

  そして杯を取り、感謝して言われた、
  「これを取って、互に分けて飲め。
  あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、
  わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」

  またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
  「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。
  わたしを記念するため、このように行いなさい」

  食事ののち、杯も同じ様にして言われた、
  「この杯は、あなたがたのために流す
  わたしの血で立てられる新しい契約である。

  しかし、そこに、わたしを裏切る者が、
  私と一緒に食卓に手を置いている。

  人の子は定められたとおりに、去って行く。
  しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」

  弟子たちは、自分たちのうちのだれが、
  そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。
  
(ルカによる福音書第22章14〜23節)

切迫した状況に置かれたイエス様

地上に成就しなければならないみ旨を
継承してこられた方がイエス様でした。

主は、この地に来られましたが、み旨を成就する期間がなく、
切実な事情に追い詰められました。

地上を去らなければならない日が切迫してきたときに、
過越の祭の記念を通じて、ご自分が去ることを
宣言される場面を聖書に見ることができます。

天の身代わりとして来られたイエス様の使命は、
地上の人間たちをサタン分立して天の圏内へ復帰するか、
あるいはイエス様が不信の人間たちの前に祭物になるか、どちらかでした。


そうしてみますと、信じてくれる対象を
探し求めなければならないイエス様でした。

まず、家庭でイエス様が天から来られた方であることを
信じなければなりませんでしたし、
この家庭を基盤としてイエス様が育った地域の会堂長とか
祭司長たちが信じなければなりませんでした。

家庭と教団を探し求めなければならない方であったのに、
家庭で主を天の人として見てくれず、
教会でも不信するようになりました。


悪主権の下で、神の国がイエス様を中心として
宣布されなければならなかったのですが、
過越の祭を迎えて、パンとぶどう酒を分けて
お与えになる恨多い主であられました。

堕落人間は、何か仕事をしていて疲れたならばやめますが、
イエス様は、世の中の人々がみな違うと言っても、
復帰の責任を放棄することができない立場でした。

家庭と教団を失ってしまい、イエス様が
世の中に入っていくことのできない立場で、
弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えながら宣言されたことは、
このことを通じて、ご自身は不信の群れの前に
祭物になる決意であるということでした。


モーセは、カナン復帰路程で三度も、
信じるに値する条件を立てて民族が一つになることを渇望しました。

また、モーセは、神が立てられた方であるということを
分かるようにするために奇跡あるいは、
契約の箱を通して信じるに値する証拠を見せましたけれども、
イスラエル民族が不信を繰り返しました。


このような不信の民族の中に来られたイエス様は、
天から来られた証拠を見せてやらなければなりませんでした。

そのような中で、教団で不信されたイエス様は直接出て行って、
重病患者たちを呼んで起こされ、盲目の者の目を開け、
不具者を立ち上がらせ、天から来られたことを見せてくださいました。

特別に三弟子を中心として、いろいろな弟子たちに
それを見せてやろうとされましたし、
七十人門徒を全国に派遣して、天が共におられることを
経験するように導こうとされました。

そのように主について回り、目で見、経験し、
また、代わりに出て行って伝道した人たちも、
結局は不信してしまいました。

イエス様に病気を治してもらった者は、
すべて自分の事情によって戻っていきました。


主の事情を理解し、主のためにしようとする者は一人もいませんでした。

弟子たちも自分たちの主の願いが何なのかと思いながら、
主のために生きようと考える者がいませんでした。

すべての人々がみな、主は自分たちのために来られたとだけ考えました。


李ヨハネ先生
〜聖書の中の心情圏〜
『恨の多い主』より


上の聖書の引用は、いわゆる「最後の晩餐」の場面であり、
この後、3弟子を連れて「ゲッセマネの祈り」に向かい、
そして捕えられ、十字架につかれます。

イエス様はどれほど孤独であられたでしょうか。。。

真のお父様が来られて、
その深い心情がわかり、解放されるまで、
2000年間も無念な思い(恨 ハン)を持ち続けておられたのでした。

ご自身の思いを誰からも理解されることなく、
それでも、天の願いを受けたので
み旨を放棄することができずに、
歩み続けてこられたイエス様でした。

イエス様のことを思うと、私の責任分担など、
全く持って大したことはない、
もっと投入しなければ、
そのように思わされたのでした。

不定期に続きます。




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*李ヨハネ先生のお名前について
李耀翰と書いて、イ・ヨハンというのが正式なお名前ですが、
日本では、李(リ)ヨハネ先生としてもお馴染みです。
ご父母様が、文鮮明(ムン ソンミョン) 韓鶴子(ハン ハクジャ)であるように
元老の方々のお名前についても、日本語読みではなく
韓国語読みに変えるべきであるかとは思うのですが、
このブログでは、親しみを込めて李ヨハネ先生とお呼びしています。



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posted by ten1ko2 at 08:56 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする