浅川先生の本、
『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より
「第一章」を紹介します。
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誰でも幸福を求めている
誰でも幸福を求めている
人間は誰もが幸福を求めて生きています。
結婚するのも幸福のため、子供を生み育てるのも幸福のためです。
また、子供が良き伴侶と結ばれて
かわいい孫の顔を見るのも幸福のためです。
人生の目的は、たった四つの文字、
「しあわせ」を得るためと言っても過言ではありません。
ところが、五本の指を使って何でもつかめるはずの人間が、
「しあわせ」を簡単にはつかめません。
つかんだと思って、手を離してみると、
なんと、「し」の前に「不」がついているではありませんか。
つかんだのは、「ふしあわせ」だったのです。
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では、どうしたら幸福を得ることができるのでしょうか。
それがあったら、絶対に幸福になれるものとは何でしょうか。
人が「あなたにとって幸福とは何ですか?」と聞かれたとき、
間髪を入れずに口から出る言葉が、
その人の真実の幸福観といえるでしょう。
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あるご主人に「あなたが最も大切にしているものは何ですか?」
と聞いてみました。
その方は、「ゴルフ道具だよ」と答えました。
ちなみに、二番目は「釣り道具」でした。
しかし、最後まで、奥さんの名前は口から出ませんでした。
ある奥さんに、「あなたにとって一番大切にしている人は誰ですか?」
と尋ねてみました。
間髪を入れずに出たのは、「はい、ヨン様です」でした。
ヨン様を最初に出されたら、ご主人には到底出る幕はありません。
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それはともあれ、一般的には、「健康」と答える人が多いようです。
病弱や病気の人から見れば当然のことと言えますが、
健康であれば、絶対に幸福になれるのでしょうか?
意外なことに、不幸な人に健康な人が多いのです。
健康だけれど不幸な人はたくさんいるのです。
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たとえば、日常茶飯事のようにけんかする夫婦は、
幸福とは言えないでしょう。
しかし、考えようによっては、けんかができるということは、
夫婦とも健康な証拠なのです。
往々にして夫婦げんかは口げんかから始まりますが、
口が達者だからこそけんかができるというものです。
夫婦共に口が健康だからこそ、けんかができるのです。
ある奥さんは、言ってはいけない言葉を、
言ってはいけない時に、絶妙なタイミングで、夫にぶつけます。
口と言葉の健康優良児(?)と言ってもいいでしょう。
この場合、奥さんが不幸にならないためには、
口内炎にかかっていたほうがよかったのです。
口が病気であったほうが、不幸にならなかったのです。
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ところで、世の中には、自分が不幸になるだけではなく
他人をも不幸に陥れる人がいます。
いわゆる犯罪者です。
この犯罪者もすこぶる健康な人たちです。
例えば、オレオレ詐欺をする者などは
神経の働きはすこぶる健康なのです。
頭の回転が速くなければ、悪知恵が働きません。
また足が速くなければ、警察から逃げ切れません。
泥棒だけを集めて陸上競技をしたら、
好記録が続出するかもしれません。
こう考えてみると、健康だからといって
必ずしも幸福になるとは限らないようです。
健康は幸福の一つの条件とはいえますが、
決定的要素とはいえないのです。
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では、何が幸福の素(もと)なのでしょうか?
ある人は、「それは決まっているでしょう。お金ですよ」と断言しました。
「お金さえあれば、幸福になれる!」
なんとなく納得してしまいそうになる答えです。
もちろん、基本的な生活を営むためにはお金が必要です。
また、豊かな生活をするためにも、お金は必要不可欠です。
しかし、お金さえあれば、絶対に幸福になれるのでしょうか?
現実には、お金があっても、不幸な人は多くいます。
生活が豊かでも、不幸を感じている人も大勢います。
貧しい時には、肩を寄せ合って仲良く暮らしていた夫婦が、
念願の良い住居に住んで、生活にゆとりができてから、
亀裂が生じてしまう場合もあります。
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かつて、「名もなく貧しく美しく」(松山善三監督)という映画があり、
多くの人の涙を誘いました。
映画は実話に基づいて制作されたそうです。
内容は題名のとおり、地位も名誉もお金もない極貧の夫婦が、
愛し合い支え合って生きていく感動的なストーリーです。
この夫婦にはお金などの幸福の条件は、何もありません。
夫婦で靴磨きをして、細々と生計を立てているのです。
そればかりではありません。
この夫婦は、言葉が語れず、耳が聞こえないのです。
もし、幸福には健康が絶対に必要というなら、
この夫婦は間違いなく不幸といえます。
しかし、「美しく」生きた夫婦なのです。
映画の中で次のような、とても印象的な場面があります。
夫婦が手話で話し合う場面です。
正確ではありませんが、こんな会話だったと思います。
「私たちは口もきけず、耳も聞こえないのに、とっても幸福ですね。
でも、世の中には、口も聞けて耳も聞こえるのに
不幸な人たちがたくさんいます。どうしてだろうね?」
「私たちに何かしてあげられることはないだろうか」
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こうしてみると、健康もお金も、条件とはなれても、
幸福の素にはなれないようです。
では、何が幸福の素なのでしょうか?(続く)
(浅川 勇男・著
光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第一章】真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です
光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第一章】真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です
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私たちは、幸福を追い求めて生きています。
心と体からできているので、
どちらも否定することはできません。
なので、心の欲望、体の欲望、どちらも求めます。
目に見えないものより、目に見える方が刺激が強いし、
また、人間は堕落したので、霊的無知に陥りました。
だからどうしても体の欲望、物質の欲望を優先してしまいます。
浅川先生のお話のように、
本当の幸福を得るには、目に見えるものだけではいけない、
そのようになります。
具体的な内容は、明日に続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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