浅川先生の自叙伝講話。
真の愛の特色、一つ目です。
☆
愛の本質とは何でしょうか。
愛の本質とは、人に何かをしてもらおうとする
思いを捨てて、人のために、全体のために
先に与えて、為(ため)に生きることです。
与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、
絶えず与えるのが愛です。
それは、喜んで与える愛です。
母親が子供を胸に抱いてお乳を与えるときに感じる
喜びの心情がまさにそれです
(自叙伝:220ページ)
☆
愛することを先立てる
愛することを先立てる
一つ目の特色は、「人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、
人のために、全体のために先に与えて、為(ため) に生きること」
(自叙伝、220ページ)なのです。
真の愛は、愛されることより、愛することを優先するのです。
幸福を求めて、人に愛を乞うのは当然のようですが、
愛することを先立てなくては真の愛ではないのです。
愛することよりも、愛されることを優先すれば、
不満がたまり、ついには憎しみになりかねません。
夫や妻が互いに愛を要求し合えば、不満な思いが積み重なって、
激しいけんかになることでしょう。
姑(しゅうとめ)が嫁に愛を強い、嫁が姑に愛を乞えば、
憎しみのバトルが始まってしまいます。
☆
真の愛は、相手を幸せにするために
自分が存在していることを悟る心なのです。
文鮮明先生は「結婚は、私のためではなく
相手のためにするものです」(同、228ページ)と言われています。
夫は妻を幸せにするために、妻は夫を幸福にするために、結婚するのです。
この観点で言えば、あなたが不幸を感じているなら、
それは、愛することよりも愛を乞うている自分の心が原因なのです。
不幸を相手のせいにする心、それが自分を不幸にしているのです。
☆
愛には優先順序があるのです。
道路にも歩行者優先などの秩序があるように、愛にも秩序があるのです。
愛の優先順序を誤れば、幸福にはなれないのです。
服の最初のボタンを掛け違うと、最後まで奇妙な姿になってしまいます。
同じように、愛の最初のボタンを掛け違うと、幸福な姿にはなれないのです。
愛のあり方が間違っているなら、
どんなに頑張っても本当の幸福はつかめないのです。
☆
真の愛とは、愛されることよりも愛することを優先し、
尽くされることよりも尽くすことを先立てることなのです。
赤ちゃんを見てください。
母親から一方的に愛を受けているように見えますが、
実は、赤ちゃんは、母親から愛される前に、母親を一生懸命愛したのです。
まず、この世に生まれたことが、親への愛なのです。
さらに、屈託のない笑顔や、しぐさで、お母さんを愛したのです。
それで、母親も、赤ちゃんにお乳を与えて愛しているのです。
☆
人間は神様によって創造されましたが、
神様は、人は愛することを先立てることによって
幸福になれるように創造されたのです。
それが、真の愛の創造原理となり、その原理的秩序に沿って
愛したときにのみ人間は幸福になれるのです。
(浅川 勇男・著
光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第一章】真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です
(※自叙伝のページ数は光言社ではなく
創芸社出版のもの)
光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第一章】真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です
(※自叙伝のページ数は光言社ではなく
創芸社出版のもの)
☆
真の愛は、先に与えることが原則である。。。
分かっていても、受けることを願ってしまう。。。
実践できないのが、私たち堕落人間です。
自然の法則の中で、
唯一、自然に反する生き方をしているのが、
『人間』だけ、と言わざるを得ません。
自然の法則に従えば、
発展し、繁殖していくのですから、
そのような生き方をしていかなければ。。。
切実に思います。
もう一つの特色は明日に!
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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