浅川先生の自叙伝講話。
真の愛の特色、二つ目は──
この講話の最終回となります。
☆
与えたことを忘れる
与えたことを忘れる
真の愛の第二の特色は、
「与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、
絶えず与える」愛なのです。
(自叙伝、220ページ)
ここで重要なことは、与えたことを「忘れる」ということです。
愛とは、与えること、尽くすことなので、この点においては、
真の愛も、そうでない愛も違いはありません。
☆
ある人は、「真の愛と真でない愛は、
尽くす愛の分量で決まる」と言いました。
確かに、中途半端に愛した愛と、全身全霊で愛した愛を比較すれば、
真の愛は、全身全霊で愛した愛のようにも思えます。
しかし、全身全霊で愛しただけで、本当の幸福になれると言い切れるでしょうか?
残念ながら、そうではありません。
全身全霊で愛したほど、報われなければ、怨みに変わる可能性が高いからです。
中途半端な尽くし方は、手を抜いた分だけ、怨みも半端です。
しかし、大きな犠牲を払って尽くしたら、怨みも大きくなります。
☆
愛に真が付くか、付かないかは、愛の分量だけでなく、
尽くしたあとで決まるのです。
尽くしたことを記憶するか、忘れるかで、決まるのです。
愛の違いは、与えたことを忘れるか、覚えておくか、で分かれるのです。
与えたことを忘れたら、その愛に「真」がつくのです。
与えたことを忘れるからこそ、また与えて、なお与えることができるのです。
そのため、いつも愛の不足を感じて申し訳なく思う愛なのです。
与えながらも、不足を恥ずかしく思う心なのです。
☆
しかし、与えたことを忘れることはなかなかできないものです。
特に、時間と労力とお金を掛けたことは、
忘れようとしても忘れられないものです。
例えば、お歳暮やお中元の贈り物はどうでしょうか?
高価な贈呈品を送れば、金額や内容や相手先をしっかりと覚えてしまいます。
心の底では、それ相応のお返しを期待してしまいます。
ところが、送られてきた品物が粗品であれば腹が立ってきます。
口上として、「お返しなんて、いいですよ」とは言いながらも、
心の底では、お返しを期待しているものです。
そのため相応のお返しがなかったり、せめて、お礼の一言でもないと、
「なにさ、人の好意を無視して。
もう二度とやるもんか」と怒ってしまうこともあります。
与えたことを記憶した結果といえます。
☆
過去に尽くした記憶は怒りや
怨みに変わる化学反応を起こす可能性があるのです。
人に与え尽くした記憶が、不幸の種となってしまうこともあるのです。
「真なる愛は、愛を与えたということさえ忘れ、
さらにまた与える愛」なのです。
(自叙伝、5ページ)
こう考えると、年を取って物忘れが多くなるのも、
幸福なことかもしれません。
自転車でスーパーに買い物に行って、
元気に歩いて家に帰ってくる老婦人もいるそうですが、
それも、幸福の第一歩と言えるかもしれません。
☆
ところで、忘れることが幸福につながることを物語る
「奇跡の老婦人」がいました。
その老婦人は、それはそれはとてもいい笑顔をしていたのです。
しかも、口から出る言葉は、「私は本当に幸せ者だ。
会う人、会う人、みないい人ばかりで、ありがたい。
神様、本当に感謝します」だけなのです。
そして、誰に会っても「ありがとうございます。
あなたに出会ったことで幸せを頂きました」と言うのです。
この老婦人は住んでいる地域で「奇跡の人」と言われていました。
なぜ、そう言われるようになったのでしょうか。
この方はとても健康な人でしたが、
突然、深刻な脳の病気で倒れてしまったのです。
生死の境をさまよったのですが、
手術によって奇跡的に回復したのです。
しかし本当の奇跡は手術のあとに起こりました。
なんと、この婦人の脳から、過去の人生の
つらかったことだけが消えてしまったのです。
そして、うれしかったことだけが記憶に残ったというのです。
それゆえ、この老婦人が思い出すのは、良いこと、
ありがたいことしかなくなったというのです。
良いことしか思い出せない人になってしまったのです。
☆
過去の怨みを忘れることは良いことなのです。
与えたこと、尽くしたことを記憶していると、
場合によっては、それが怨みとなり、人生に不幸をもたらすようです。
もし、私たちが、与えた割に不幸だと感じているなら、
記憶力の良さのせいかもしれません。
算数や英語は記録力が学業成績を向上させますが、
尽くしたことの記憶は、幸福の成績を下げてしまうようです。
文鮮明先生の言われるとおり、真の愛とは、与えて忘れることなのです。
☆
真の愛の二つの特色とは、第一に、まず与えること、
第二に、与えたことを忘れることでした。
まさに、神様は真の愛で人類を愛してこられたのです。
だから疲れることなく、絶えず与え続けることができたに違いありません。
そして、文鮮明先生も真の愛で人類を愛しておられるのです。
自叙伝の中で、こう言われています。
「今も私の中には、いまだ
すべて与えきれない愛だけが満ちています」
(自叙伝、6ページ)
(浅川 勇男・著
光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第一章】真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です
(※自叙伝のページ数は光言社ではなく
創芸社出版のもの)
光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第一章】真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です
(※自叙伝のページ数は光言社ではなく
創芸社出版のもの)
☆
「愛は与えて忘れなさい」
これは真のお父様の名言だと思います。
そして、言葉も素晴らしいのですが、
何よりもお父様は生涯、実践してこられたのです。
2日修練会の講義、
創造原理、授受作用の時に、
この話をします。
そして、講義をするからには、
実践しないといけないですよね。。。
しかし、「与えて忘れる」というのは、
お恥ずかしい話ですが、
なかなか難しいのです。
「これだけやったのに、
そのことは褒めらず、
指摘だけされるんだ。。。」
具体的に話すのは省きますが、
これは公私ともにありますね。。。
この投稿を機会に
「もう一度、真の愛の実践をしていかなければ」
反省と決意をさせていただきました。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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