浅川先生の講話
「霊界を知らなければならない理由」
から続編です。
☆
霊界での真の愛の力
霊界での真の愛の力
さて、霊界に行って、何が一番生活のために必要なのでしょうか。
この世で一番大切なものとは何でしょうか。
衣食住が重要ですが、お金がなければ、この世では生活することができません。
お金がなければ、食べ物を買うことができません。
着物一着買うことができませんし、
ましてや大きなお金がなければ良い住居に住むことはできません。
そのため人は出世しようとし、良い会社に入って、多くの給与を得ようとします。
その意味では、この世ではお金というものが重要な要素を担っています。
☆
では、霊界ではお金は役に立つのでしょうか。
食べたい物、着たい物、住みたい家、
それはお金で得ることができるのでしょうか。
ここが重要なのです。
霊界ではお金は全く役に立ちません。
お金があっても食べ物の一つも手に入らず、
服の一着も手に入れることができません。
車も買うことができません。
ましてや住居などは造ることもできません。
では、何があったら食べ物を手に入れることができ、
何があったら着る物を手に入れることができ、
何があったら良い住居に住むことができるのでしょうか。
☆
このお金に代わる大切なものとは何でしょうか。
それが真実の愛というものなのです。
真実の愛がお金に代わるのです。
真(まこと)の愛だけが食べ物を得る力になります。
真の愛が服を作る力になります。
真の愛が住居を得る力になるのです。
実に霊界は、真の愛がすべての力になるのです。
ここであえて「真」の愛と言っているのは、
霊界に行って「役に立たない愛」と、
「役に立つ愛」の二つがあるからです。
世の多くの人は「人を愛した」とも言い、
「愛し合った」とも言います。
愛し合えば霊界に行って、それが役に立つのでしょうか。
立ちません。
愛すればいいというものではないのです。
真の愛でなければ、霊界に行っては着物一着も手に入らないのです。
☆
では真の愛とはいったい何でしょうか。
人のために尽くす、与えるということは、どちらも愛ですが、
「真」がつくかつかないかで違いがあります。
尽くしたことを忘れ切る愛を真の愛と言います。
しかし、尽くしたことをしっかり記憶しながら見返りを要求し、
尽くしたことを強調し、見返りがなければ怨(うら)みに変わってしまう、
愛しながら怨みに変わる、愛しながら憎しみに転換していく、
このような愛は真の愛ではありません。
お金で言えば偽札(にせさつ)なのです。
偽札も本物の札も形は似ていますが、
一方は物を買うことができ、一方はそれを使えば犯罪になります。
だましたことになります。
偽の愛と真の愛。
真実その人の幸せだけを考え、
尽くしながら忘れていくこの愛を、真の愛といいます。
この真の愛だけが物を生み出し、食べる物を得させ、
生活の最高の力になるのです。
その意味においては、霊界の生活を深く考えるならば、
この世で生活しながら、真の愛を体得する、
真の愛を実践するためにお金を使い、知識を使い、技術を使い、
自分の命と生涯を真の愛の実践につなぐことが大事です。
真の愛が自分自身の「心根」になっていくことが霊界を見据えた、
天国に行くための人生であると考えられるのです。
浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第一章 霊界を知らなければならない理由
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第一章 霊界を知らなければならない理由
☆
私たちはとかく目に見えない物より、
目に見える物を追及してしまいがちです。
それでも愛が重要であることは知っています。
イエス様は「神の国と神の義を求めよ」
そのように語られました。
すなわち神様を求める生活をしなければならないし、
神様が与えてくださった愛、
すなわち、真の愛を実践する生活を
何よりも心掛けないといけないと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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