李ヨハネ先生のみ言。
先回は、十字架につかれたイエス様の
無念な思い、恨(ハン)についてのお話で、
私自身の抱える思いが、天の深い心情や事情に比べたら
いかに小さいかと感じました。
続編です。
☆
心霊の成長と正しい信仰の基準
心霊の成長と正しい信仰の基準
今日、私たちはどのような内容の心配をしていますか?
何ゆえに忙しいですか?
何ゆえに切なく思われますか?
主の恨に徹して生きます。
これが永生の要素になり、このような生活が、
天がいつも共にいてくださる生活なのです。
今日、私たちの師(お父様)は、恨に徹して生活されていることを、
私ははっきりと見てきました。
疲れた時やお休みになられる時に、
その恨を考えるだけでも瞬間的に眠けと疲れが
消え去るほどに徹しておられる方です。
それゆえに神の事情が分かる者であるならば、
恨に徹して生きるようになるのです。
恨に徹している者は、他人が行き来するのを見るときも、
他人のやるせないことを見ても天の口惜しさを体恤するようになるし、
他人を軽々しく評価できないようになるのです。
信じない者を見て、恨に徹してみなければなりません。
過越の祭を守ってきた弟子たちは、
パンとぶどう酒を一日の会食だけと思い、
主の悲壮なるみ言を聞いても理解できませんでした。
恨に徹した人であってこそ、
恨に徹したみ言を聞いて悟ることができたはずです。
その人の気掛かり、心配が何なのかに従って、
聞く耳が違ってくるし、目が違ってきます。
私たちは果たしてみ言の恨に徹しているでしょうか?
恨の内容を知って生活しようということです。
李ヨハネ先生
〜聖書の中の心情圏〜
『恨の多い主』より
〜聖書の中の心情圏〜
『恨の多い主』より
☆
「恨(ハン)」というのは、
なかなか日本人には難しい言葉かもしれません。
同じ字を書きますが、恨みではありません。
「恨」は、天の心情に通じているゆえに感じるのであり、
恨むのではなく、あきらめるのでもなく
真の愛で許しつつも、天の願い、み旨を知るからこそ感じる
言うに言われぬ、無念な思いだと思います。
恨(ハン)に徹して生活をしておられる真の父母様。
私たちも神様の恨に通じれば、
真の父母様のごとくに歩むことができるのだと思います。
今までの人生の中で、大なり小なり
悲しいこと、恨みに思ってしまうような体験があるとしたら、
ただ個人の思いで悲しんだり、恨んだりするのではなく、
神様の事情、心情に照らし合わせていけば、
より神様に近くなり、
また、神様の恨、というものがわかるのはないでしょうか。
これは、み言に出会う前もそうですが、
出会ってからも、またこれからの歩みにおいても、
そういう神の痛みに通じるものがあることでしょう。
それを神様の歩み、
さらに言うならば、実体で通過していかれた、
真の父母様の歩みに照らし合わせていけば、
正しく乗り越えていけるに違いありません。
すべて、神様の愛であった、
そして、真の父母様の勝利が、本当に感謝であると
あらためて思うのです。
*李ヨハネ先生のお名前について:
李耀翰と書いて、イ・ヨハンというのが正式なお名前ですが、
日本では、李(リ)ヨハネ先生としてもお馴染みです。
ご父母様が、文鮮明(ムン ソンミョン) 韓鶴子(ハン ハクジャ)であるように
元老の方々のお名前についても、日本語読みではなく
韓国語読みに変えるべきであるかとは思うのですが、
このブログでは、親しみを込めて李ヨハネ先生とお呼びしています。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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