2018年10月31日

勝利のあと失敗しやすい?! また、辛く寂しい時には、どうする? 《金元弼先生》



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10月は、解放と祝福の月でした。

今日は、ハロウィンですね。
また、昨日は、6500双の祝福記念日でした。
30周年、おめでとうございます!!

昨日の金元弼(ウォンピル)先生のみ言は、
「喜びすぎると失敗しやすい」ということ。
今日は、その続き。
さて、お父様の場合は???


反対に寂しい時にはどうしたらいいでしょうか。

寂しいというのを、一つの対象の立場
あるいはマイナスの立場として見てみましょう。
その時には、プラスの立場を見付けなければいけません。

人間は神の前、真の親の前では、愛する子供の立場です。
その子供を苦しめて喜ぶ神もなければ親もないのに、
なぜ愛する私たちにこういう苦しみを
与えなければならないのだろうか、
こういう寂しい境地に
追い込まなければならないのだろうかと考えてみるのです。

それはそういう蕩減の道を通じて、もっと大きな恵みを与えんとする
神の愛があるからこそだということを考えなければいけません。

寂しさや苦しさを感じることを蕩減しなければならない
という条件が私たちに提示されたのです。
神は、子供にその蕩減を払わなければならない
条件があるのだから仕方がないのです。

しかしこれを勝利したら、神は最も大きな愛を
与えようとして待っておられるのです。

そのような神を思うと、ただ一方的に私は死にたい、
もう苦しくてたまらないという考えに走らないで、
神はもっと大きな愛を私に与えようとしているのだという
神の愛を感じて、私たちは望み、
希望をもつことができるようになるのです。


それゆえ、私の心がプラスの立場に立っているときには、
早くマイナスの立場を考えなさい。

マイナスの立場に立っているときには、
早くプラスの立場を考えなさい。
マイナスの立場に立っているときには、
必ずプラスの道を見付けなさい。

そうすることによって授受作用するのです。


今お話ししたようにするならば、喜びの中にあっても感謝しながら、
神がこのようにして苦しまれたので、
私に恵みや喜びが来たのだということを考えるときには、
喜んだ後に寂しいと感じることはありえません。

そして、いくら苦しいことがあっても、死にたいことがあっても、
このような考えをもつとするならば、
神の恵みを見付けることができます。

授受作用できずに、喜んでばかりいたら力が全部消耗するし、
また悲しんでばかりいたら、悲しみで全部の力を消耗し、
何もなくなってしまうのです。


世の中には、そういった例がたくさんあります。

山登りは非常に困難が多いけれども、
登ったときの喜びを考えながら登ります。

そして下りるときには、注意深く登った心で
下りるとするならば、失敗しないのです。

そういう心をもたないで、
そのまま下りていったら失敗しやすいのです。
転落することがあるのです。


お金がなかった者に、急に大きなお金ができると、
それによって人は失敗しやすくなります。

ですから、貧しい人がお金持ちになったときには、
お金のない人のことを考えて、
初めてそのお金を維持していくことができるのです。


皆さんが四十日の蕩減条件を立ててお祈りをしたとしましょう。
四十日を勝利するのは非常に難しいのですが、
勝利した時には大きな喜びを得るでしょう。

その時に失敗しやすいのです。

喜びがもたらされる前の、
四十日の苦しみの過程を考えないからです。
それを考えながら喜びを享受するならば、
絶対にそんなことは起こりません。


教会草創期のメンバーたちは、恵みに、
真理に触れてよみがえった心持ちで、
その喜びのままにどうしようもなくて駆けつけてまいりました。

そして伝道は統一原理を語るというよりも
「メシヤが来ました」と言って伝道するのです。

そういう喜びは必ず心の中に秘めておかなければいけません。
喜びを与えるために今まで苦しまれた
神を考えながら喜ばなければいけないのです。
でないと、ややもするとそういった失敗を起こすことがあるのです。

喜びにあふれていたから、
先生の言うことをよく受けとめて聞けなかったので、
家庭や教会からたくさんの迫害を受けるようになったのです。

そこでメンバーはその蕩減を受けるのですが、
その上、メンバーをリードしている先生が
すべての蕩減を受けるようになったのです。
お分かりですね。


これから皆さんに難しいことがあったり、
あるいは喜ばしいことがあったりしたときには、
いつも授受作用の原理を頭に思い浮べてほしいのです。

私たちは喜ぶときには、躍り上がるように喜び、
悲しいときには人が見て
すぐ分かるように表情に出しますけれども、
先生をずうっと見てまいりますと、
先生はそういうことがあってもなかなか表されません。

先生に良い報告をした人が、“こんなにいいことなのに、
先生は喜ばれないのかなあ”と思ってしまうほど、
本当に無感覚のような様子のときがいくらでもあります。

しかし、何日か後になってみると、
そのことを人の前でお話しするのです。
それを見て、“ああ、先生は
非常に喜んでおられたんだなあ”と分かるのです。


反対に悲しいことがあっても、
先生は全然それを表さないで黙っていらっしゃり、
かえって喜ばしいことを話されるのです。

マイナスの心のときに、
先生は意識的にプラスの心に誘導しようとなさるのです。
ですから先生はそれほど感激も見せず、
またそんなに悲しい顔も見せないのです。

それで先生をいつも眺めていますと、何も語らず、
古い苔の生えた岩のような感じがします。

先生は本当にたくさんの事情を抱え、
感情を抱えておられますけれども、
それを表さないので非常に重く見えるのです。



山登りの例えなど、
とてもわかりやすいアドバイスですね。。。

寂しい時を乗り越えるお父様のことを思ったら、
興南のお父様を思い出しました。

「神よ、大丈夫です。
私はこんなに元気ですから心配しないでください」
そのようなお父様の精神は、
マイナスの立場でも、
プラスを見つけていかれた、
貴い道であったのでした。。。

真の父母様は神様の実体ですから、
真の父母様が歩まれた道は、
まさに神様が今まで歩まれた道である、
そのように解釈してもいいのではないでしょうか。

そして、私たちは子女の立場ですから、
親が歩まれた道を相続する立場です。
苦しい時、また逆に恵みを受けた時、
このみ言を思い出していきたいと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:28 | Comment(3) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする