金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
平壌時代のお父様の証しを紹介します。
☆
なぜ大きな声で語られるのか
なぜ大きな声で語られるのか
皆さん、み言を語られる時に
大きな声で語る理由を理解してほしいのです。
先生はなぜそんなにするのだろうかと考えるかもしれません。
み言を知らず真理が分からずに死にかかっている、
そういう人に真理を教えますと、
生き返って喜ぶ姿を見ることがあると思います。
それと同じく先生は人々が死の中にいるのを見ると、
それを生かそうとする深刻な心をもたれるのです。
先生はそのように考えてするのではなく、
直接それが見えるのです。
そればかりではなく霊的に見れば、
サタンが傍らにいて連れていこうとする状態が見えるので、
話をする時に静かに語ることは難しかったと思います。
そして先生がひとたび語りますと非常に細かく語られ、
時間にも注意していなかったのです。
ですから十二時になるのも分からなかったわけです。
それらの人の中には家庭を守らなければならない人もいます。
あるいは職業に就いていて、
出社時間までに行かなければならない人もいます。
学校に行かなければならない人もいます。
しかし、み言は非常に恵みとなりますから、明日の時間や、
これからの約束の時間を守らないでみ言を聞くようになったのです。
☆
ある時、韓鶴子夫人が先生に、
「お父様、食口たちはみ言が非常に長いということを言っていますけれども、
なるべく短くすることはできませんでしょうか」と勧めたことがありました。
その時に先生が夫人に答えたことは次のとおりでした。
「短くすることは私もよく知っています。
今この話をしてあげたらこの人たちが生き返る、
そういう人が見える」と言われるのです。
もしそれを止めたとするならば
そのまま生き返ることはできないというのです。
み言は人に生命力を与えるものです。
短くしたら別の人には良いのですけれども、
こちらの人はよみがえらないのです。
ですからその人の問題を解決するばかりでなく、
すべての人に解決を与えるために仕方なく長く語らざるを得ないのです。
この世の講義とは違うのです。
知識を伝達するのと違い、
生命をよみがえらせるために長くなる、
ということをお話ししてくださったのです。
先生と私たちと違うのは、死にかかっている姿や生き返る姿が、
先生には目に見えるということです。
☆
話をする時、重要な点は大抵強調します。
先生が大きな声でお話しするのは、
その人にとって非常に重要なことですから、
真心を込めてあげようとすると
大きな声にならざるを得ないと理解するのです。
愛する子供が泳げないのに、
海の深い所へどんどんどんどん行ってしまうならば、
皆さんは子供が遠くにいるのに静かに
「帰ってきなさい。帰ってきなさい」と言いますか。
大きな声で叫ぶでしょうか。
それと同じことです。
☆
私たちの背後には多くの善霊界と悪霊界がある
ということを忘れてはいけないと思います。
私たちはそれがはっきり分からないのですが、
先生にはそれが全部見えるのです。
そういうことで、その時は何も分からなかったけれども、
今考えてみるとそういう事情であったのかと分かるのです。
それは時間がたつのを忘れて熱中して
み言を語ってくださったことから理解するようになりました。
☆
先生は本当にいつもいつも汗を流し、
さっきも言ったごとくみ言を与える時に涙で訴えてくださいました。
お祈りの時、あまりにも先生が涙を流し、
食口たちが全員涙を流すのを見たときに、
私は非常に苦しかったのでした。
なぜかといえば、そのように全員が涙でいっぱいなのに、
私は涙がでなかったからです。
お祈りの間は分からないのですけれども、
お祈りが終わった時には全員が涙をふくのです。
私には涙がないからそれが大変恥ずかしかったのです。
私だけが涙を流していないので、その人たちが私を見て
どう考えるかということを思うと非常につらかったのです。
そのくらいに先生と食口たちが、
たくさん涙を流したということを皆様に話したかったのです。
☆
お父様は確かに大きな声でみ言を語られましたね。
どれだけ命を生かすために、
切実で深刻なお父様だったか。。。
そんなお父様だったのですね。
私自身もみ言を語る立場を与えられていますが、
元弼先生が語られるように、
申し訳ないことに、霊的に鈍いので、
どれだけみ言を語ったら、生き返るのか、
ほとんどわからないのが実情です。
しかし、あの元弼先生にも、お父様や食口たちが
涙を流して祈りを捧げている時に、
涙が出なくて苦しかった。。。
そんな時代があったのだと思うと、
生命を生かすみ言を
深刻に切実に求めていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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