李ヨハネ先生のみ言。
続編です。
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天国と天国生活
天国と天国生活
天国という言葉があります。
皆さんは、天国をどのように考えますか?
天国は、父に私自身が完全に所有されるときに可能です。
神に所有されるならばよいのです。
イエス様は、この地上で天国生活をなさいました。
イエス様の一生はもちろん、十字架の道でしたけれども天国生活でした。
なぜならば、父の前に決裁を受けて生きる生活をなさったからです。
何であっても神の前に必ず決裁を受けて生きました。
天国生活は、特別のことではありません。
神にのみ主管を受けるのが天国生活であることを知らなければなりません。
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天国生活と言えば、大変華麗であり、格好が良いと思うかもしれませんが、
それは、幼い時の考えであって、
もう少し大きくなって分別がつくようになるならば、
天国生活というのは、お父様と一緒に生きる生活だということを知るようになります。
それでは、心の天国とは何ですか?
み言と共に生きることなのです。
その次に、私の生活天国とは何なのですか?
お父様の事情によって生きることです。
自分の事情は一つもない生活です。
その次に、家庭天国とは何ですか?
すべての食口がお父様に仕えながら生きる、それが家庭天国です。
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天国は、この地上に朽ちる物質をいっぱい従えて
他人の前に揺れ動いて生きるのではありません。
家庭が和睦し、教会と国がすべてこのみ言を中心として神だけに仕え、
物質と人間が和睦し、喜びと愛が豊かであり、
物質も豊かな、そこがまさしく天国なのです。
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麦パン五切れで五千名が食べて残ったならば、そこがまさしく天国でした。
自分が食べようと持ってきていた麦パンを
イエス様に持っていってささげたその幼子の心は、
そこに集ったすべての人を接待したいという心だったのです。
自分の口に入れるよりあの方(イエス様)が
おいしく召し上がるのを見るほうがもっと喜ばしい、これが天国です。
麦パン五切れを前にして五千名が食べても余った、
これはすなわち互いに「ために生きる」心をもった人たちが
集った所なので、天国だったというみ言です。
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他人がもっているものを惜しみ、他人のものをうらやましがり、
欲張る世の中、そのような世の中が地獄です。
ですから、私たちはまず、各自が天国の人にならなければなりませんし、
その次には、天国家庭を成し、天国家庭が集まって
天国教会を成さなければなりません。
天国教会が成されるならば、神がここに火の柱と雲の柱をもって
共にいてくださり、正しく天国を形成されるというのです。
李ヨハネ先生
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練院
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練院
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1977年のみ言なので、
「天国生活というのは、お父様と一緒に生きる生活だ」
そのように記されています。
しかし、実際には、
「真の父母様と一緒に生きる生活」だということを
知らなければならないのだと思います。
そして、私たちも
天国人になるために、
真の愛の人格者にならなければならないし、
そのためにも神氏族メシヤの道を
まい進していかなければと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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