李ヨハネ先生のみ言です。
☆
ここに集った皆さんは、先生のみ言を聞き、愛を受け、
先生お一人のゆえに信仰する決心をし、出発したと思います。
先生が韓国におられるときは、
全国の教会の総責任者が先生であられますから小まめに巡回されました。
事実、派遣された人に牧会者の資格がありませんから
心配されて回られるのですが、私たちはそのことが分かりませんでした。
私は自分が牧会者だから、資格があるのだと思いました。
ところが、先生が回っていかれたあとが問題でした。
食口たちが私を慕わず、言うことを聞きませんから、
統率するのも難しくなり、責任者としては顔色がなくなってしまいました。
それで私が先生に、「私は十ワットの電球であり、
先生は千ワットの電球ですから、先生が来られるならば、
ぱっと明るくなって、すっと去られるならば、
私の電気の明るさをもっては暗くて
食口たちの心霊の前に光になることができません。
教会を統率するのが難しいです。
ですから、しょっちゅう来ないでください」
と、このように分別のないことを申し上げました。
☆
なぜならば、李牧師に会えなければ耐え難いと、
早朝から訪ねてきていた人たちが、
先生が約三日ほど来て行かれてからは私のところへ来ません。
それを回復させようとするならば非常に難しいのです。
回復させるためにさらに精誠を尽くすならばよいのですが、
精誠を尽くさずに不平だけを言っていました。
食口たちを見れば、責めたいのです。
事実、食口たちは私の言うことを聞きにくるのではなく、
先生のみ言を聞きにくるのです。
ですから、私が先生を一番に自慢し、
先生だけに尽くして奉るならば、
「李牧師は先生にあのように立派に侍るのだなあ。
実に私たちの牧師さんは信ずるに値する」
と、このようになったでしょう。
私が食口たちより先生をもっと信じようとする努力を見せてこそ、
食口たちも私を眺め、私を仲保者として
立てて先生に向かっていくのに、
先生に関係する話はせずに自分の話だけをしようとしますから、
食口たちの心が後ろ向きになるのが当然なのです。
☆
おそらく、皆さんも牧会生活をしながら難しいことは、
このようなことだということを感じたはずです。
教会を訪れる人の心は、慕わしさの中心、
自分の相談の中心、み言の中心を探し求めるようになります。
子供たちが外から家に帰ってきて母親がいなければ、
家に入らずに外でずっと遊ぶのです。
そうして母親が帰ってくれば一緒に入ってきます。
家に父母がいないならば、子供たちは分散して孤児になり、
父母がいるならば子供たちが集まります。
教会も同じです。教会の責任者が父母らしく信仰の中心になり、
真の父母らしく手本になる信仰の人物になるならば、
食口たちの心も教会長に似て先生の前に
正しい姿勢をもつようになります。
このような教会に行ってみるならば何かしら温和であり、
熱い風が吹くと言いましょうか、春の園と言いましょうか、
そのような雰囲気を感じます。
ところがそのような心になっていないならば、
教会内で寂しい冷たい風が吹くのを感じるようになります。
李ヨハネ先生
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練院
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練院
☆
李ヨハネ先生がお父様に、
「・・・来ないでください」
そのように言われたなんて驚きです。
ヨハネ先生のみ言によれば、
お父様と比較して、
愛の減少感を感じる者になるのではなく、
お父様を誇り、自慢する、
まさに侍る信仰を持つことが
重要なのだということを教えてくれます。
それは、私たちにも
日々の信仰生活のポイントが
何であるかを示唆してくれるものだと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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