李ヨハネ先生のみ言、続編です。
☆
慕わしさの主体、愛の対象
食口たちも教会に行くことによって、
異端と言われたことがあるでしょう。
行かなければ行かないで、
「それ見てみろ、何日もたたずに統一教会に行かなくなると思った」
と後ろ指をさされますから、行かなければならないのですが、
心ではそうではありませんから、これは死ぬような思いです。
これは実につらいことです。
慕わしさの主体がいない時は、私たちの内なる人(霊人体)
の住む所がなくなるのと同じです。
心が安住する所を失ってしまった人になるのです。
このような人は、第二段階までは上がってきたと見ることができます。
ですから、み言を中心にして教会を慕いながらも、
慕わしく思う人がいないのでやるせなく思う、
このような人が実際は最もやるせないのです。
☆
もう一つは、自分がみ言を聞いて悟り、貴重に思って、
自分が貴重に思った人を伝道しようとするのにできないとき、
すなわち恵みを受けたあとには、私を慕わしく
思うことのできる対象者を探し求めなければならないのですが、
信仰の子女がいなければ、皆さんの心は住む所を失うようになります。
古くなった食口たちが教会の責任者と円満であり、
み言もしっかりと立てた生活信条をもったとしても、
繁殖する力、すなわち、信仰の対象者がいなければやはり、
心情が安定した生活をすることができないのです。
世の中でも息子、娘を生めなかった夫婦たちは、愛が深くなりません。
どこか分かりませんが寂しいのです。
夫婦を笑わせる、授受作用させる
媒介体がありませんから笑いが少ないのです。
父母、夫婦、子女、この三数は、喜びを巻き起こす存在数です。
同じく心霊世界でも心と体とみ言が合わさるとき、
自分の心霊が丈夫になるのです。
心にはみ言をもち、また、そのみ言が体で行動となって現れるとき、
内なる人の性相がしっかりすることができるのです。
教会でみ言を聞くときは、「ああ、このようにすればよいのだなあ」
と思っても、家に帰れば自分も知らずにみ言を忘れてしまうのです。
そうであれば心と体の一致がなされず、
イライラしたりするようになり、気掛かりになったりするのです。
これが、信仰がよくなったり悪くなったりする理由です。
李ヨハネ先生
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練院
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練院
☆
教会に対する迫害は、過去を考えると
ものすごく少なくなっていると思います。
ただ、「慕わしさの主体がいない時は、私たちの内なる人(霊人体)
の住む所がなくなるのと同じです。
心が安住する所を失ってしまった人になるのです」
というみ言は、とても重要なみ言だと思います。
一般社会においては、心の拠り所がなくなり、
自分の存在意義、価値を忘れて、
孤独な思いを抱えている人たちが多くいます。
そういう意味では、
神様・真の父母様を伝えること、
すなわち慕わしさの主体を教えることは、
何よりも重要なのだと感じました。
愛する対象を持つ、ということも
私の心霊を復活させることでも
とても重要になってきます。
お母様も超VIPたちにみ言を語っていかれます。
私たちも愛する対象にみ言を伝えることを通して、
霊的にアップダウンしない者になっていきたいです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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