2018年12月12日

イエス様が、捨てられた群れを訪ねていかれた理由?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言、
「恨の多い主」より、続編です。



捨てられた群れを訪ねていかれたイエス様

イエス様は、家庭から捨てられ、教会からも捨てられ、
選民であったイスラエルの民からも捨てられました。

ベルゼブルだと追い詰められました。
選民に期待して来られたメシヤは、
仕事をすることができませんでした。

愛の実体であられるイエス様は、
かわいそうな人々や捨てられた人々を探し求め始めました。
ご自身と同じく捨てられた者の世界へ訪ねていって、
そこで愛と哀れみを施し、
ご自身を必要とする人たちを相手にされました。

ユダヤ教は違うといいますが、
ユダヤ教の指導者たちができないことをなさる方でした。


世の中には、自分より出来の悪い者を迫害する法がありません。
迫害は、実力のない側から実力のある側にするのです。

イエス様は、家庭と教団を失ってしまいましたが
大衆の中で基盤を確保し、教会をつくり、
その教会の中で家庭を成さなければならなかったのに、
弟子たちにまで不信されて立つ位置がありませんでした。

イエス様を中心とした天の権勢を
地上に引っ張り降ろさなければならない弟子たちだったのに
不信してしまいました。


イエス様が十字架にかけられたのは、
弟子たちにも原因がありました。

もちろん、マリヤがイエス様に神の息子として仕えたならば、
そしてマリヤの親戚たちがイエス様に仕えたならば、
マリヤを中心としてユダヤ教会で
神霊に満ちたユダヤ教信者たちが信じて、
祭司長たちにまで連結される道があったのです。

ところがイエス様が三弟子を連れてゲッセマネの園で
「十字架を免れるようにしてください」と祈られたのを見るならば、
三弟子に未練をもって連れて行かれたことは明らかです。

イエス様が、この地上で信仰基台と実体基台が成就されてこそ、
存在することのできる位置が準備されるようになっています。

このように信仰者は、信仰の子女を導くことができないならば
心霊の成長に問題が生じるようになります。


恨を抱くならば火がつきます。
恨を抱き火をつけようとするとき、
地上でつかなければ霊界ででもつくようになっています。

信仰が生きた、死んだというのは、
その人の恨と嘆息の内容が何なのかで知ることができます。

自分の事情による恨は、
内なる人(霊人体)が死ぬような問題の種になりますが、
主の恨を抱くならば内なる人が永生するようになるのです。

イエス様の弟子たちは、奇跡を見て
イエス様と共に迫害を受けながらも、
主の恨多い事情を知ることができませんでした。

恨は、どこから相続されるのかといえば、
迫害を受け口惜しい立場で相続されます。



同じ迫害でも、また困難なことがあっても、
どのように乗り越えるかによって、
神様に通じることもできるし、
自分の次元で留まってしまうことがある、
そのようなことを示唆しているのだと思います。

同じ恨でも、主の恨を抱く、ということ、
私が置かれている事情、環境を
神様に結び付ける、という
そのような発想の転換というか、
私に巣くっている自分中心の思いを
根こそぎ変えていく、
そこが重要なのだと思います。





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posted by ten1ko2 at 08:55 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする