李ヨハネ先生のみ言、
「恨の多い主」より、続編です。
☆
捨てられた群れを訪ねていかれたイエス様
捨てられた群れを訪ねていかれたイエス様
イエス様は、家庭から捨てられ、教会からも捨てられ、
選民であったイスラエルの民からも捨てられました。
ベルゼブルだと追い詰められました。
選民に期待して来られたメシヤは、
仕事をすることができませんでした。
愛の実体であられるイエス様は、
かわいそうな人々や捨てられた人々を探し求め始めました。
ご自身と同じく捨てられた者の世界へ訪ねていって、
そこで愛と哀れみを施し、
ご自身を必要とする人たちを相手にされました。
ユダヤ教は違うといいますが、
ユダヤ教の指導者たちができないことをなさる方でした。
☆
世の中には、自分より出来の悪い者を迫害する法がありません。
迫害は、実力のない側から実力のある側にするのです。
イエス様は、家庭と教団を失ってしまいましたが
大衆の中で基盤を確保し、教会をつくり、
その教会の中で家庭を成さなければならなかったのに、
弟子たちにまで不信されて立つ位置がありませんでした。
イエス様を中心とした天の権勢を
地上に引っ張り降ろさなければならない弟子たちだったのに
不信してしまいました。
☆
イエス様が十字架にかけられたのは、
弟子たちにも原因がありました。
もちろん、マリヤがイエス様に神の息子として仕えたならば、
そしてマリヤの親戚たちがイエス様に仕えたならば、
マリヤを中心としてユダヤ教会で
神霊に満ちたユダヤ教信者たちが信じて、
祭司長たちにまで連結される道があったのです。
ところがイエス様が三弟子を連れてゲッセマネの園で
「十字架を免れるようにしてください」と祈られたのを見るならば、
三弟子に未練をもって連れて行かれたことは明らかです。
イエス様が、この地上で信仰基台と実体基台が成就されてこそ、
存在することのできる位置が準備されるようになっています。
このように信仰者は、信仰の子女を導くことができないならば
心霊の成長に問題が生じるようになります。
☆
恨を抱くならば火がつきます。
恨を抱き火をつけようとするとき、
地上でつかなければ霊界ででもつくようになっています。
信仰が生きた、死んだというのは、
その人の恨と嘆息の内容が何なのかで知ることができます。
自分の事情による恨は、
内なる人(霊人体)が死ぬような問題の種になりますが、
主の恨を抱くならば内なる人が永生するようになるのです。
イエス様の弟子たちは、奇跡を見て
イエス様と共に迫害を受けながらも、
主の恨多い事情を知ることができませんでした。
恨は、どこから相続されるのかといえば、
迫害を受け口惜しい立場で相続されます。
☆
同じ迫害でも、また困難なことがあっても、
どのように乗り越えるかによって、
神様に通じることもできるし、
自分の次元で留まってしまうことがある、
そのようなことを示唆しているのだと思います。
同じ恨でも、主の恨を抱く、ということ、
私が置かれている事情、環境を
神様に結び付ける、という
そのような発想の転換というか、
私に巣くっている自分中心の思いを
根こそぎ変えていく、
そこが重要なのだと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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