2018年12月14日

両親が愛し合っていると、子が祝福を希望?! 手が掛からない子にこそ… 《蝶野》



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南アフリカの祝福式☆


広島の人気講師、蝶野(ちょうの)講師の講演の続編。

「家がきれい」「喜びの中での敬拝や訓読」に続く、
3つ目のポイントです。



〈夫婦で侍り合う姿が子供に感動を与える〉

3つ目のポイントは「夫婦で侍り合う」ことです。

現場で「父母会」に関わって分かったことは、
夫婦がお互いに侍り合うことに難しさを感じる家庭が多い
ということでした。

夫か妻、どちらかの立場が強い場合が多いようです。
けんかはしなくても、一方が我慢していることが多いのです。

年を取ってから夫婦の関係や生活習慣を改めるのは簡単でない場合があるので、
家庭をもつ前からお互いを尊重する努力をしましょう。


子供は小学1、2年生くらいになると、口では表現しなくても、
お父さんとお母さんが接するときの姿勢や、
2人が育んできた関係性を見ながら多くのことを感じ取っています。

夫婦げんかをしないことは素晴らしいですが、
一方の我慢を背景にして成り立っている関係に子供が感動することはありません。

けんかをしない≠ニいう夫婦は世の中にもいますが、
お母さんがお父さんに侍り、お父さんも
お母さんに侍っている夫婦は、そうはいません。
子供は、そのような両親の姿に感動するのです。

そして、侍り合う両親が信仰生活を送る姿を見ながら、
「両親が一つになれるのは、『神様』という中心があるからだ」
と自然に教育されていくので、
子供は善なるもの≠ニして神様や真の父母様、信仰に関心をもち始めます。

また子供たちは、友達が親の悪口を言ったり、
家族の関係が壊れた寂しさを吐露したりするのを学校で目にした場合には、
「友達の言う親の姿と、うちの親の姿は違う」と感じるでしょう。

そうなれば、「祝福を受けるべきだ、受けるのが正しい」と悟るようになるのです。



〈子供は愛を育むために信仰をもちたいと思う〉

祝福家庭の中にも、乳幼児への言葉かけや、
能力を引き出すための一般教育に力を入れる家庭があります。

それはもちろん重要ですが、一般的な知識の収集だけに偏ると、
「子女が信仰をもって祝福を受け、祝福家庭として
神様の夢を実現していく」という天の願いを見失う可能性があります。

イスラエル民族のように、カナンの風習や価値観に
天の願いや信仰の伝統が侵食されてしまうならば、
天の深い悲しみとなってしまいます。

たとえ本人がとても優秀で、いくら親子の関係に問題がないと思っても、
祝福を受け、いざ家庭を出発してみると、
「信仰は面倒だ」となることもあります。
自らに信仰の動機がないと、信仰生活や十一条を守る気が起きないのです。


ただ、「信仰は嫌だ」という子供はいたとしても、
「愛が嫌だ」という子供はいません。

ですから、両親は信仰がもたらす愛≠与えれば良いのです。
そうすれば子供は、愛を育むために信仰をもちたいと思うでしょう。
これが本質です。

夫婦がお互いに侍り合う愛の関係を築いていれば、
子供に対する心が耕され、自然と接し方も良くなっていきます。
しかし、ほとんどの夫婦は「侍り合う」ことから目をそらし、
子女への対処法≠ノばかり関心をもつ傾向があるのです。

その場しのぎ≠繰り返し、夫婦が問題と向き合わなければ、
子女たちの家庭にツケが回ることになります。

そのことを考えると、「私たちから真の愛の伝統を出発させたい。
私たちを通して子供に神様の愛を伝えたい」
との思いに至るのではないでしょうか。

結局は夫婦の問題です。
信仰と愛情の問題を分けて考えてはいけないのです。


また、愛を育むということにおいて、夫婦の「性生活」は欠かせません。
これについて夫婦で葛藤を抱えていては、侍り合うことは難しいでしょう。

性生活に対するお互いの意見や考えを尊重し、
若いうちに問題を克服して助け合っていけば、
心は縦的にも横的にも成長します。



〈手のかからない子にこそスキンシップを〉

最後に乳幼児との関わり方ですが、
スキンシップをできるだけ多く行うことが大切です。
これは効果てきめんです。

乳児から幼児、小学生へと成長する中で、
手がかかった子供のほうが後々、親子の絆が深くなっていたり、
問題が起きても修復しやすかったりします。

ですから、手のかからない子供ほど
意識してスキンシップをする必要があります。


例えば、親にとっては、夜泣きをしない子供のほうが楽です。
しかし、夜泣きが少ないからといって、
子供にあまり手をかけないでいると、後々、問題が生じる場合があります。

赤ちゃん自身が、「私が泣いたら、お母さんにもっと苦労をかける」と思って、
遠慮して泣くのを我慢することがあるそうです。
赤ちゃんにも親に気を遣う≠ニいう感性があるからです。

親がそれに気づかずに、「手がかからない子だ、楽だ」と放っておくと、
受けるべき時期に必要な愛情を受けられず、
愛情の空白期間≠ェ生じてしまいます。

個人差もありますが、その空白を埋めるために、
思春期に特有な現象と合わさって、
大きな問題が起きることもあります。
その時、改めて「愛の投入路程」が必要になってきます。

ですから夜泣きをしない子には、
昼間にべたべたとたっぷりスキンシップをし、
夜は泣かなくても抱きしめてやります。

「手がかからなくて良い子だ」というのは、親の都合による基準です。
「良い子であっても、なくてもいい」のです。


家庭を出発し、子供を生み育てているときに、親としての自覚は芽生えます。

その新鮮な時期に3つのポイント
「家がきれい」「喜びの中での敬拝や訓読」「夫婦が侍り合う」を習慣化し、
祝福の恩恵を次世代につないでいきましょう。



『愛を育むために信仰をもちたいと思う』
この言葉は、とても重みのある、重要な言葉だと思います。
私たち一世は、真理を知り、信仰を持ち、
そして愛を育んできたように思います。

しかし、祝福二世は逆のパターンが多いのではないでしょうか。
愛を感じ、その愛を育むために信仰をもってもいいと思う、
そして、真理のみ言を学んでいく。。。

私たちとは正反対なので、信仰が必要だから、
そのように子供たちに信仰を強要することがあると思います。

実際には、夫婦が愛ある関係を築き、
また、子供たちに愛を与えることによって、
信仰が必要であることを感じてもらうのです。。。

蝶野講師もそういうパターンを多く見ているので、
その部分を強調されるのだと思います。

「家がきれい」「喜びの中での敬拝や訓読」「夫婦が侍り合う」
口癖のようにしながら、実践し、習慣化させて、
それを子供たちに善なる波動として、
与えていきたいですね。




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