2019年01月31日

キレる人の思考パターンは?! そして、イライラの解消法は。。。 《阿部局長》



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Blessed Lifeに阿部局長のコラム
「家族の絆づくり」において、
なぜ人は怒るのか?と題したコメントがありました。



〈キレる人が増えている!〉

最近、危険な「あおり運転」が話題になっています。
ささいなことからキレて攻撃的になり、危険な事故につながるなど、大きな問題です。

他にも、お店や企業に対して過度なクレームを繰り返す「クレーマー」、
学校に理不尽な要求を繰り返す「モンスター・ペアレント」、
医療機関に理不尽な要求や暴言・暴力を繰り返す「モンスター・ペイジェント」など、
キレやすい人が増えているのではないでしょうか?


なぜ、イライラしやすい人、怒りやすい人が増えたのでしょうか?

イライラしやすい人は、ものごとを自分の思い通りにしたい、
コントロールしたいという気持ちがとても強い傾向があります。

しかし、それらを完全に実現することはほとんどないので、
満足感を得られず、常に欲求不満状態です。
イライラしている本人は自分を被害者のように感じているかもしれませんが、
現実的でない期待を抱き、不一致を起こしているのは他ならぬ自分自身です。

また、自分に余裕や自信がないことが
相手や環境に対しての過剰な期待を持つことにつながり、
その期待と現実に大きなギャップが生じます。
その不一致の違和感が怒りとなります。



〈怒る人の思考パターン〉

感情はそれぞれの受け止め方、思考パターンによって決まります。
つまり、感情は自分が引き起こしているのです。

どんな考え方が怒りを感じやすいかというと、
「〜べき」「〜なければならない」「〜してはいけない」という考え方です。

「静かにすべきなのに騒いでいる!」
「やらなければならないのにやらない!」という思考です。

ものごとに対して100%を期待する完全志向であり、
期待値が高過ぎると現実とのズレが生じやすくなって、
ズレの分だけ怒りが大きくなります。

正しいことをしているようですが、
自分の期待に100%答えてもらいたいという相手に対する「甘えと要求」があります。


ですから、イライラの解消のためには、
期待値を少し下げればいいというわけです。
「〜べき」ではなく、「〜だったらいいな」「〜したい」
「〜してほしい」などに言い換えたらどうでしょうか?

期待値を下げたら、少し怒りが小さくなります。
また、怒って感情的になっている時は、
大抵事実と感情がぐちゃぐちゃになっています。

「〜に違いない」「〜はずだ」という
思い込みや根拠のない妄想に基づいていることが多くあります。

自分の心を見つめ直してみましょう。

家族の絆づくり 51
なぜ人は怒るのか?
ナビゲーター:阿部 美樹



確かに自分の感情を抑えられない人が多くなっていますよね。
そのような思いになってしまうと、
自分の理性を超えて、別なものが入ってくるような気がします。
すなわち悪霊です。


長年、東京拘置所の医務技官をしていた加賀乙彦氏が
「悪魔のささやき」という著書でこのように述べています。

  「悪魔は果たして存在するのか? は、
  私自身が数十年にわたって考え続けた疑問でもあります。

  刑務所や拘置所で出会った犯罪者(死刑囚)や
  病院で診療してきた患者さん(自殺生還者)と向き合い、
  同時に自分自身の内面を覗き込みながら、
  そしてまた聖書や文学に描かれた悪魔というものも手がかりにしながら、
  私なりに出した結論は、やはり悪魔はいるだろうということです。

  どんな姿をしているのか、肉体などなく霊的な存在なのか、
  そういったことはわからないし、これからもわかり得ないでしょう。

  しかしこれだけは断言できます。
  少なくとも私たち人間の心の中には
  悪魔的なものが確固として存在している、と。



死刑囚との面会で、彼らが殺人をした時に、
自分ではない、何かが自分を動かしていた、
そのようなことを感じるている人が多い、というのです。
本当に恐ろしいことです。


私たちは大なり小なり、自分の感情を
コントロールできない時があったりしますね。

霊的存在に主管されないようにするためにも、
阿部局長の記述にあるように、
人に対しては、愛をもって過分な要求をせず、期待値を下げて、
自分の心を見つめなおさないといけないと思います。





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2019年01月30日

「お連れ様はいつ来ますか?」 天国は家庭で行くところ 《浅川先生霊界シリーズ》



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浅川先生の霊界シリーズ。
続編です。



天国に入るには

さて、天国には一つの特色があります。

天国の、「天」という字を見てください。
「二人の人」と書いて、これを合体させて天と読ませます。

つまり天国で人間と言えば二人なのです。
あるいは家族なのです。
これが天国の住人の資格であり単位なのです。

ですから天国には独り者はいません。
基本単位はみんな夫婦なのです。
そうでなければ入れないのが天国という所です。


仮にある人が自分の肉欲と闘って、非常に清い性格となり、
罪一つ犯さずに霊界に行ったとしましょう。

「当然、私は天国に入れるな。
なぜなら罪を犯さず、清い生活をしたから。
たくさんの人を愛して、罪一つ犯さなかった」
ところが、天国に入れるかと思って行ってみると、
天国に入れないというのです。

そして、天国の門番に聞かれるのです。
「あなたが清い生活をしてきたのは分かりますが、
お連れさんはいつ来ますか」
天国には配偶者という道連れが必要だということです。


地獄には道連れは必要ありません。
天国にこそ道連れが必要なのです。

妻という人、夫という人が一緒でなければ、入れない所が天国なのです。
そういう意味では、二人で、親子で、
素晴らしい愛の家庭をつくってこそ、入れる所が天国なのです。


それでは、天国に入るためにはどのような生活が必要なのでしょうか。

実は、地上生活で培われた性格は死んでも直らないという性質があります。
その死んでも直らない性格を「心根(こころね)」と名付けてみましょう。
根のついた性格ですから、死んでも直らないのです。
この心根をもって霊界に行くのです。

この心根が、「真の愛の心根」になっていれば天国に行くことができます。

つまり人を愛して尽くして忘れる心根、この心根になっていれば、
豊かな衣食住の生活ができるのです。
一切は可能です。

ですから、真の愛の心根をいかに身につけるかだけが、
地上生活で一番重要なことになるのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第二章 天国とは



天国は夫婦で入るところ。
これは、真のお父様の教えであり、
家庭連合が最も訴えるところです。

神様の一人息子として誕生されたイエス様でさえ、
楽園にしか行くことができなかったのも、
そういう理由からですよね。

イエス様の基準に至ることは、
どれだけ大変なことでしょうか。
そんなイエス様が、地上で出来なかったことが、
相対を愛する、ということだといいます。

夫婦で天国に入る、ということは、どういうことでしょうか。
入り口は二人で入り、そのあとは、「さようなら」
天国で別々の生活をする、ということではありません。

お父様のみ言に『結婚人格』という内容があります。

「霊界に行って ある女性の中をのぞいてみると、
笑っている顔の男性がいます。
それで『男性の顔が見えますがそれは誰ですか』と尋ねれば、
『夫です』と言うのです。

一つになっているので、二つに分けられません。
死んでも永遠に共に生きていくのです」
(天聖経より)

個人的な見解ですが、24時間ずっと一緒というわけではなくて、
それぞれ違う知り合いのところに行きたい場合など、
分かれることもあるけれど、基本的にはいつも一緒だ、
ということではないでしょうか。

いずれにせよ、夫婦で、家族でともに天国に行く。
だから相対を愛し、家族を愛するということが
何よりも重要なのだと思うのです。





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2019年01月29日

神が、真の父母が、霊界が、サタンが、いつも私と共にある?! 《金元弼先生》



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どこかへ行くときには
私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが
私たちと共にいて
眺めている



金元弼(キム ウォンピル)先生の「生活伝道」より。
今回は、「目に見えないものと共にある生活」を紹介します。


私たちお互いが一緒に考えなければいけない点を話しましょう。

私たちは、目で見える、五感で感じることのできるもの、
それだけが存在すると考えがちです。
それは危険な考え方です。

一人でいて、だれもいなければ人のものを盗むことができる、
しかし人が見ていると、これを持っていくことはできないということです。

私たちの今までの過ちは何でしょうか?
それは自分を中心とする考え方からきます。

それは言うまでもありませんが、しかしまた私たちは
「だれも見ていない」という考えをもっているからともいえます。
しかし、私を見ている者はいるのです。


まず自分の心を考えましょう。
心は見えません。
しかし心は私を見ているのです。

夫婦がいるとするならば、その体と体は見えます。
しかし見えない心が私を見ています。
私の心が見ています。

私たちがどこにいても、神が、霊界が、真の父母が、
常に私たちがいる所に共におられるのです。
しかし私たちは、肉的五感だけをもって生活していますから、
それをいつも忘れてしまいます。


私たちはこのように、ご父母様のお写真を置いています。

もし私たちが、真の父母と神に常に侍る生活をするとするならば、
お写真が必要でしょうか?
必要ではありません。

私たちは見える世界で生きていて、
常に見える物だけが存在すると考えながら生活していますから、
常に自分だけしかいないと考えるのです。

ですからそういう心を刺激するために、
このようにお写真に侍る生活をするのです。


キリスト教では、イエス様の十字架をどこにでも置いているのです。
なぜでしょうか?

常にイエス様に侍る心をもって暮らすとするならば、
十字架は必要ではありません。

そうではなく、見える物だけ存在すると考えるから、
そういう物を置くのです。
分かりますか?


私たちには心があるではないですか。
私たちは常に心と相談できるのです。

そういう生活をすれば、常に見えないものと共にある生活をしますから、
神を、真の父母を、善なる霊界を意識しながら
共に生活することができるというのです。

私たちはいつも自分たちだけでいるのではないのです。
心が私と共にあるごとく、神が、真の父母が、霊界が、
サタンが、いつも私と共にあることを考えるべきだというのです。

どこかへ行くときには私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが私たちと共にいて
眺めているという生活をしなくてはいけないのです。

私たちはこういう機会を通して、常に自分だけではない、
常に見られている、という生活をしていきましょう。



目に見えないものと共にある生活こそが、
侍る生活なのだと思います。

頭ではわかっていながらも、目の前のことが忙しく
現実のことに追われてしまう・・・
そういったことを悔い改めないといけないと思います。
逆に現実に飲まれそうになる時ほど、
心を見つめる生活が重要なのですね。

もっと、心を中心として生活すれば、
見えないものが見えてくるようにも思います。





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