2019年01月19日

(証し)エリート将校 朴普煕、スペシャルな生涯 最初はトイレ掃除から?!



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朴普煕(パク ポウヒ)先生は、
どのようにしてお父様に出会われたのでしょうか。
そして、そのあと取られた行動とは。。。



真のお父様との出会い


(翌日、)陸軍少佐の私は、部下に
「金永雲(キム ヨンウン)先生の教会がどこなのか調べなさい」と命令しました。
それが「統一教会」だということと、
教会は青坡洞(チョンパドン)にあるということが分かりました。
そして水曜日、軍服を着た私は青坡洞に1人で現れたのです。

しかし道がよく分からないし、看板もありません。
それで近くの店の人に、「統一教会はどこか分かりますか」と聞いたら、
「ああ、統一教会ですか」と、
じろりじろりと見ながら教えてくれました。

「向こうを回って角を曲がったら小さな入り口があります。
そこを行って、右に曲がったら小さな門がありますから、
その門を押して入りなさい」と言うのです。

昔は入り口がなく、看板もありませんでした。
そのとおりに行ってみると、旧本部教会がありました。


その夜、初めて統一教会の礼拝に参加しました。

2月で大変寒く、ストーブはあっても火はついていません。
5、60人の若者たちが、ひざまずいて座って、聖歌を歌っていました。
若者の聖歌の歌声は心霊に深い感動を与えてくれました。
私は一番前に座って、説教を聞いたのです。

説教が終わると、私のそばに座っていて質素な軍人の
ジャンパーを着ていた方が立ち上がって、み言葉を語り始めました。

「この若いお方はだれだろうか。眼光が鋭く、
あまりにも威厳がある」と思いました。
その時、礼拝堂の後ろのいすに座っておられた
劉孝元先生が教会の責任者だと、私は思っていました。


礼拝が終わると、金永雲先生は笑顔で握手をしてくれました。
そして「どうやって来たのですか」と言うのです。

それで「案内がなくても、私は情報将校だから、
そのぐらいのことはすぐ分かります。
『また来てください』と言ってくださるのが待てなくて、
自分で探してやってきました」と私は答えました。

すると金永雲先生は「あなたは特別です。先生にご紹介しましょう」
と言って、私をお父様の所へ連れていってくれました。
そこでごあいさつをした方がお父様で、
先ほど私の前でみ言葉を語られた質素な方だったのです。

お父様は力強い握手で、「あなたの話は金永雲先生からよく聞いていました。
部屋に入りましょう」とおっしゃいました。
それが、私とお父様との出会いです。


その日からできるだけ、私は教会に時間を費やしました。
昼は軍人として勤務し、夜は毎晩教会に行って、お父様のみ言葉を聞きました。
朝も早く教会に行って、5時のお祈りをして、教会の掃除をしました。

というのは、私は肩には将校の階級章がついていましたが、
統一教会から見たら二等兵だったからです。

私は毎朝、教会の便所掃除をしました。
それから礼拝堂を掃いて水拭きしました。
外に出たら将校、中に入ったら二等兵という気持ちで、
教会の掃除をするのが、当時の楽しみでした。

「めざそう!天国家庭」より



「将校」という身分は、とても立派なのに、
教会では、「二等兵」だと自ら自覚されて、
トイレ掃除から出発された朴普煕先生。それも喜んで。
これはなかなかできることではないですね。。。

朴先生は、み言に出会う前から、
しっかりとした人格の方だったでしょう。
このような方のことを「義人」
と呼ぶのではないか、と思います。

その後、アメリカ大使館で武官として派遣され、
10年間、英語を完璧にマスターしたのちに、
お父様の通訳として活躍され、
「メシヤの口」というニックネームがつきました。

フレーザー委員会の時にも証言にたった朴先生。
「真実」というタイトルのビデオも懐かしいですね。

お父様の摂理を進めていくにおいて、
大きな役割を果たされた朴先生。
霊界でのご活躍を心から祈念するとともに
ご冥福を心からお祈り申し上げます。




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posted by ten1ko2 at 10:16 | Comment(1) | 草創期の証し(韓国・日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月18日

(朴普煕先生の証し) 初めてみ言に出会った日は、嬉しくて眠れなかった!


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先日聖和された、朴普煕先生の証しを紹介します。

先生が伝道されたのは、梨花女子大事件の2年後でした。
韓国中に(旧)統一教会のデマが広がっていた頃です。
日本の伝道は始まってもいませんでした。


1957年の2月、私はソウルで陸軍将校として、
アメリカの将軍に仕えていました。
その時、駐韓米軍の司令部で働いておられた
金永雲先生に伝道されました。

入教して40年が過ぎました。

み言葉に接した時に、私は
「この内容が正しいだろうか。学者にも尋ねてみよう」とか
「評判がどういうものか」という考えが、全くありませんでした。

統一教会と全然知らないで、講義に招かれた夜に
「統一原理」の前編を聞いたのですが、
素晴らしいみ言葉に感動の至りでした。


私は、日本の支配下から一九四五年の解放、独立、
そして韓国動乱を体験してきました。
韓国動乱の時は陸軍士官学校の生徒として、
動乱勃発一日目から戦場で戦いました。

そういう人生を通じて、
九死に一生を得たことが一度だけではありません。

21歳の時から血まみれの戦場で生き延びながら、
「人生とは何か」「神様はいらっしゃるのか」
「本当の生き方はどういうものか」「死後に何があるのか」
ということに対して、「本当の信仰をもたなければならない」
と思うようになりました。

それであちこちの教会にも行ってみたり、
説教を聞き、聖書を読んだりしながら、
私なりに正しい道を探そうと、さまよい、
死に物狂いで努力をしてきました。


それで原理を聞いたその瞬間から、
「私が生きる道はこれだ!」と悟りました。
「私が行くべき道にようやく導いてくださった」と、
神様に感謝をささげました。

教会の名前は何でもいい、教会はどこにあってもいい、
いくらみすぼらしくても問題ないと思ったのです。
この真理こそ私が求めてきた真理でした。


翌日の夜、金永雲先生が私一人のために
特別に後編の講義をしてくださるというので、
その夜は興奮して家に帰りました。

ところが、翌日、出発の準備をして夕食を食べている間に、
ご飯がのどを通らないくらい大変な熱が出てきました。
7時が約束でしたが、目まいがするし、
熱が40度ぐらいに上がり、もうどうにもなりません。
それでご飯を食べず、妻が準備した寝床にそのまま倒れ込みました。

時計を見ると、7時半になっています。
金永雲先生が私を待っていることを考えると申し訳ないのですが、
あの時は電話もないので、連絡もできません。
妻が「このような状態では絶対に行かないでください」
というのを振り切り、車を呼んで、約束の場所に行きました。

約束どおり金永雲先生の後編の講義が始まりましたが、
私は苦しくて何を聞いているのか全然頭に入りません。
毛布をかけてぶるぶる震えながら、我慢して2時間ほど聞きました。

しかし、朦朧としながらも、韓国にメシヤが現れるという結論で終わった時、
私は何とも言えない興奮を感じました。

そして「またもう一回会いましょう」と別れるその瞬間、
今まで頭が割れるほど痛かったのが、すっきりとして、
いつ私が病気だったのかと思われるほど完全によくなりました。

その後3時間、金永雲先生と会話を交わした感動は、今でも忘れられません。


その時、私はまだ統一教会の名前も聞いていませんでした。
「どこの教会ですか」と言っても、教えてくれません。
金永雲先生はにこにこ笑いながら、
「そんなに急がなくてもよろしゅうございます」と言ってなだめるのです。

私がこんなにも興奮して、早く教会につながりたいと思っているのに、
なぜこう金永雲先生は躊躇するのかと不思議に思いました。
仕方なく家に帰りましたが、その夜はうれしくて一睡もできませんでした。



朴先生の霊の親は、
アメリカ開拓をされた金永雲先生でした。

青年将校だった朴先生を導いたのですから、
凄まじい精誠のもと、伝道されたのだと思います。

また、朴先生ご自身も
「真理に出会った!」その揺るぎない一点において、
迫害を受けていたであろう、統一教会に出会い、
み旨の道に邁進していかれたのです。

明日はお父様との出会いを紹介します。
お楽しみに。

朴普煕先生の経歴紹介を含む
聖和に関する本部からの公文を
下に掲載しました





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統一家の代表元老である36家庭 朴普熙(パク・ポーヒ)会長が,天一国6年天暦12月7日(陽暦 2019年1月12日)午前7時30分、享年90歳で 清心国際病院にて聖和されました。
真のお母様は、一生涯を天の父母様と真の父母様に侍り、忠孝の見本を見せられた朴普熙会長の聖和式を世界聖和式として挙行するようにと、祝福して下さいました.
朴普熙会長様の世界聖和式は下記の日程で執り行われますので、全世界指導者及び食口の皆様は朴普熙会長の霊界安着と、忠孝の生涯を相続できるように精誠を捧げて下さいますようにお願いいたします。


1.主要略歴 :
1930年8月18日忠清南道牙山郡道高面出生。1957年2月17日統一教会入教。1961年5月15日尹基淑女史と36祝福家庭聖婚。1962年リトルエンジェルス創設、1965年アメリカワシントン教会設立、1969年韓国文化財団創設及び総裁就任、1971年〜1994年真の父母様特別補佐官、ニューズワールド社長、UCI会長、世界報道人協会会長、国際カウサ運動総裁、ワシントン・タイムズ会長、世界平和頂上会議議長、パンダ自動車会長、国際勝共連合会長、南北統一運動国民連合議長、世界日報社長、カメルーン国家メシヤ、モンゴル国家メシヤ及び分捧王 など

2.主要受賞 :
1968年真の父母様功労賞、1992年中南米統合機構“自由と統一の大十字勲章、1996年牧会宣教部門33年真の父母様功労牌、2004年海外宣教貢献真の父母様功労賞、2014年真の父母様特別功労牌 ほか多数


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2019年01月17日

李ヨハネ先生の遺言?! 教会に導かれた頃の証し 《キリスト教牧師からの華麗な転身》



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先日聖和された李ヨハネ先生は、男性としては、
南に来て初めて復帰されたといいます。
ボンネックル時代のことです。

どのようにして教会に導かれたのか、
それまでの経緯も含めて、紹介したいと思います。

クリスチャンの家庭に生まれた李ヨハネ先生。
幼い頃から長老教会に通っていました。

満州に移住しても韓国人教会に通い、
そこで牧会を担当することになりました。
24歳の時でした。

そして、第二次世界大戦が勃発し、
ヨハネ先生は、日本にわたり、
神学校に通います。

戦後、韓国に戻りますが、
物欲に眩み、聖職を捨て去る牧師たちに幻滅し、
ご自身で信仰を求める生活をしました。

そして、お父様との出会いがあったのでした。。。


その後ソウルから何時間か離れたある教会を受け持って、
ソウルに住みながら礼拝を行いました。

この教会とは、南大門(ナムデモン)教会の長老を通して因縁を持ち、
引導者がいない間だけ担当したのです。

そうしながら南山(ナムサン)チョンヘ神学校2学年に編入して1学期を通いました。


このような中でも神様は直接啓示を通して、
又は信仰のある生徒の証しを通して『時』を教えてくれ、
『主の再臨』を知らせてくれました。

38度線のため平壌(ピョンヤン)の信仰熱度を直接知らなかったのですが、
そこで信仰生活をした熱誠信徒たちから、
平壌がまるで韓国のエルサレムだなということを実感することができました。

その人たちから「平壌に恩恵が多い一人の青年がいるが、
家庭で集会をして獄中に入れられた」という話を聞いたのです。

その青年の言葉を聞いたことのある人たちによると、
彼は他の人が分からないみ旨を知っている方のようであり、
何か非凡な方に間違いないようでした。


平壌の青年の話をする人の中に、玉世賢(オク セヒョン)さんがいました。
彼女は当時40代中頃の婦人でした。

北から来た2名が家庭集会を通して恩恵を与えてくれましたが、
私もそのような集会で玉世賢さんを知ったのでした。

当時、玉世賢さんが侍っていたその青年は、韓国に再臨主が来られ、
既成教団は使命を果たせず火が消え、
パリサイ教団と同じだと主張しているということでした。

私もその言葉に共感し、それで牧会者たちの彷徨(ほうこう:さまよい歩くこと)
始まるのかと思ったのです。


6.25動乱が勃発すると、すぐに私は南へ避難民隊列に混じって下り、
釜山(プサン)に到着し、避難民たちといったん草梁(チョリャン)教会に居所を定めました。

更に済州島(チェジュド)に入り、何ヵ月か配給の食料で過ごしました。
済州島でも教会で寝起きし、家庭集会をもちました。

既に私は玉世賢さんなどを通して聞いていた内容もあるし、
個人的に啓示を受けていたこともあるので、
一般教会の信徒たちと対話がよく通じないことを感じました。

礼拝時間にも参加はするが、どの信者に会ってもやるせない心を感じ、
教会を心配し再臨の時を話せる人に会うのは難しかったのです。


私は1952年下半期に、釜山で2、3ヵ月さまよった後、
全日家庭集会を通してソウルで会った玉世賢さんの居所を知りました。
そこで凡一洞(ポミルドン)に住んでいるのを知って訪ねて行きましたが、
玉世賢さんに会えず、先生に会いに市内に出ていることを知りました。

既にソウルでうわさを聞いて先生がどんな方であるかを知っていたので、
まず先生にお会いしようと、信者たちを伴って
凡一洞の土で築いた家を訪ねて行きました。


私は原理講義を堕落論から聞きました。
先生は原理原本をその年の夏にすべて書いたと言われながら、
それを読んでみなさいということでした。

最初は内容がとても難しかったのです。
後半の40日を中心とする復帰摂理歴史に対するみ言に一番感銘を受け、
その内容を写して熱心に勉強を始めました。

天の歴史がこのように40数を中心とする
サタン分立の公式によってなされてきており、
旧約と新約が公式的に連結されてアダム家庭の問題が解決されるので、
聖書に対する観点が変わるのを感じるようになりました。



李ヨハネ先生の信仰は、形式に重んじることなく、
信仰の本質を求めてこられたので、
お父様に出会うきっかけにもなっているのかと思います。

証しを読むと、お父様との出会いよりも、
み言に感動してこられたのだな、というのが印象的です。

お父様は堕落論から講義をされたのですね。
キリスト教では解くことのできなかった、
深い意味合いを知ってほしかったのだと思います。

ところが李ヨハネ先生が感動されたのが、
「サタン分立40数」でした。
この数理性もキリスト教ではわからなかったと思いますが、
神様の摂理には、数理性があることを李ヨハネ先生が知って、
感動されたのだと思います。

私たちは、お父様が解かれたみ言を、
もちろん貴重なものだとは思いつつも、
どれだけ解明されるために、精誠をつまれ、
サタンから勝ち取られたものであることを、
あまり意識せずに生活しているのかもしれません。

李ヨハネ先生、貴重な証しをありがとうございました。
そして、先生が遺してくださったみ言を
これからも宝としながら、み旨に役立てていきます。。。

この証しは、とても長いのですが、
最後の結論部分だけを紹介して終わりにさせていただきます。
何か、私たちへの遺言のような気がするのです。



今も私はみ言を伝える者として、一番心配しているのは
み言を聞き、恩恵を受けてそれで終わるのでなく
その原理のみ言を受肉して人格化させねばならないということです。

今まで(見てくる中で)、み言に出会うと、そのみ言に陶酔して、
あたかも小さい子供がおもちゃを持って遊ぶように喜んで、
終わってしまう場合が数多いように思われます。

今はみ言を宣布する時期というよりは、そのみ言で人になるときです。

初期には信仰が幼く世間知らずで、神様がくださったみ言を
嬉しく楽しく受け、その気分と一つになって事を成してきたのですが、
今になってみると人格と生活に連係させなかったような気がします。

もし、み言を聞いて喜んでばかりいないで、
「人になる」ことを心配したならば、
今日よりもっとましであったと思うのが私の心情です。







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posted by ten1ko2 at 10:22 | Comment(0) | 草創期の証し(韓国・日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする