2019年01月03日

教会には、慕わしい人たちがいる?! 霊人体が健康な人 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言を紹介します。


今日、私たちは三数、すなわち、み言を中心とした生活、
み言を中心とした姿勢、み言を中心とした生活観をもって、
み言を中心とした私なのか、み言を離れた私なのか
ということを分立することができなければなりません。

私の思考方式は、いつもみ言を経て出ていき、
み言を経て話し、いつもみ旨を中心として話すようになるならば、
私の個体は漸次、信仰的な姿勢が整えられるようになります。

そうしながら教会では、み旨を中心とした君と私という関係を結び、
み旨を中心とした対象関係を結んで三数が形成されるのです。


慕わしさの主体が教会にいるし、
私を慕う対象がいるようになるならば、
私は教会で落ち着いた人です。

慕わしさの主体であるアベルがいて、
その次に私が慕わしさの対象になるならば、
私はその教会に霊的な登録がなされる本性をもったのです。


外的に入会願書を出したからといっても教会員ではありません。
復活も同じです。
統一教会に入ってきたとしても、全員が復活するわけではありません。

霊的な基盤という、実に天が私を通じて活動することのできる
足場が生じてこそ初めて復活の基台が確保されるし、
情の接ぎ木がなされたと見ることができるのです。

「接ぎ木された」という言葉の意味は、
私の情を引っ張る中心が生じたし、
他人の情を引っ張ってくるようになったということです。

私を天に接ぎ木することができないとするならば、私たちは死にます。
神がお越しになりませんから死ぬのです。
神が来たくても来ることができないとするならば、
私はもう既に神の法則に違背したということです。

死とは別のことではありません。
神の前に主管を受けられないのが死ぬことなのです。
肉体的に息ができなくて死ぬのではありません。


私たちの心霊の呼吸は、情です。
愛です。
慕わしさの中心をもち、慕わしさの主体になるならば、
私は呼吸することのできる人だというのです。

そうすれば繁殖力をもつようになります。
皆さんは、呼吸していますか? 
健康ですか? 
心霊が健康な人ですか? 

慕わしさの中心をもち、慕わしさの対象をもった、
そのような霊人体が健康な人です。


ところが、教会に長く通った人たちの中にも死んだ人が多いのです。
「だれが慕わしくて訪ねてきますか?」と言えば、
「統一教会を信じたから訪ねてくるのであって、
だれかが慕わしいというのではありません」と言います。

「私を慕わしいという人もいないし、私自身も慕わしい人がいません。
慕わしい人は、先生お一人だけなのです」と、
こう思う人は、住む所のない人です。

皆さん、各自が自分の心の位置を手探りしてごらんなさい。
自分の生活圏の外を眺めてはいけません。
自分の生活圏、すなわち、皆さんが住んでいる家、
皆さんが身を置いている教会との関係がなくては、放浪者です。
流れて動き回る人としか見ることができません。

ところが、イエス様は、それがないのです。
それでイエス様の話が出てくるのです。

聖書の中の心情圏
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
一九七七年十月二日 韓国中央修練所
【イエス様の内的生活】より
『信仰によって生きる生活』


霊人体が健康な私。
神様、真の父母様を知っていたとしても、
為に生きる実践、真の愛の実践をすることが、
天が私に願っていることです。

そのためにも、
目の前の人を愛すること、
すなわち、神氏族メシヤ活動の実践は、
とても重要であるのだと思います。

お母様は、クリスマス晩餐会のみ言、
さらには、年頭のみ言で、
「追い込まなければなりません」
そのように語られました。

追い込んでくださるお母様に、
心から感謝いたします。





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posted by ten1ko2 at 11:23 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする