李ヨハネ先生のみ言を紹介します。
☆
今日、私たちは三数、すなわち、み言を中心とした生活、
み言を中心とした姿勢、み言を中心とした生活観をもって、
み言を中心とした私なのか、み言を離れた私なのか
ということを分立することができなければなりません。
私の思考方式は、いつもみ言を経て出ていき、
み言を経て話し、いつもみ旨を中心として話すようになるならば、
私の個体は漸次、信仰的な姿勢が整えられるようになります。
そうしながら教会では、み旨を中心とした君と私という関係を結び、
み旨を中心とした対象関係を結んで三数が形成されるのです。
☆
慕わしさの主体が教会にいるし、
私を慕う対象がいるようになるならば、
私は教会で落ち着いた人です。
慕わしさの主体であるアベルがいて、
その次に私が慕わしさの対象になるならば、
私はその教会に霊的な登録がなされる本性をもったのです。
☆
外的に入会願書を出したからといっても教会員ではありません。
復活も同じです。
統一教会に入ってきたとしても、全員が復活するわけではありません。
霊的な基盤という、実に天が私を通じて活動することのできる
足場が生じてこそ初めて復活の基台が確保されるし、
情の接ぎ木がなされたと見ることができるのです。
「接ぎ木された」という言葉の意味は、
私の情を引っ張る中心が生じたし、
他人の情を引っ張ってくるようになったということです。
私を天に接ぎ木することができないとするならば、私たちは死にます。
神がお越しになりませんから死ぬのです。
神が来たくても来ることができないとするならば、
私はもう既に神の法則に違背したということです。
死とは別のことではありません。
神の前に主管を受けられないのが死ぬことなのです。
肉体的に息ができなくて死ぬのではありません。
☆
私たちの心霊の呼吸は、情です。
愛です。
慕わしさの中心をもち、慕わしさの主体になるならば、
私は呼吸することのできる人だというのです。
そうすれば繁殖力をもつようになります。
皆さんは、呼吸していますか?
健康ですか?
心霊が健康な人ですか?
慕わしさの中心をもち、慕わしさの対象をもった、
そのような霊人体が健康な人です。
☆
ところが、教会に長く通った人たちの中にも死んだ人が多いのです。
「だれが慕わしくて訪ねてきますか?」と言えば、
「統一教会を信じたから訪ねてくるのであって、
だれかが慕わしいというのではありません」と言います。
「私を慕わしいという人もいないし、私自身も慕わしい人がいません。
慕わしい人は、先生お一人だけなのです」と、
こう思う人は、住む所のない人です。
皆さん、各自が自分の心の位置を手探りしてごらんなさい。
自分の生活圏の外を眺めてはいけません。
自分の生活圏、すなわち、皆さんが住んでいる家、
皆さんが身を置いている教会との関係がなくては、放浪者です。
流れて動き回る人としか見ることができません。
ところが、イエス様は、それがないのです。
それでイエス様の話が出てくるのです。
聖書の中の心情圏
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
一九七七年十月二日 韓国中央修練所
【イエス様の内的生活】より
『信仰によって生きる生活』
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
一九七七年十月二日 韓国中央修練所
【イエス様の内的生活】より
『信仰によって生きる生活』
☆
霊人体が健康な私。
神様、真の父母様を知っていたとしても、
為に生きる実践、真の愛の実践をすることが、
天が私に願っていることです。
そのためにも、
目の前の人を愛すること、
すなわち、神氏族メシヤ活動の実践は、
とても重要であるのだと思います。
お母様は、クリスマス晩餐会のみ言、
さらには、年頭のみ言で、
「追い込まなければなりません」
そのように語られました。
追い込んでくださるお母様に、
心から感謝いたします。