李ヨハネ先生のみ言、
続編です。
☆
地上生活の重要性
地上生活の重要性
今日、宗教人たちは考え違いをしています。
肉身をもって見えない世界に精誠を尽くすことだけが
信仰の目的であると思っています。
霊界が主体であり、アベルであると思っているのです。
ところが、「統一原理」を知るようになれば、
地上でカインを愛して屈伏させた人を
神がいちばんお喜びになるということが分かるようになります。
☆
神はヤコブを称賛しました。
ヤコブは、カイン側のエサウを屈伏させてイスラエルになったのです。
ラバンも屈伏させたのです。
イスラエルという言葉は、サタン側の人が私の前に屈伏し
「まことにあなたは天の人です」と証したというのです。
これが復帰路程中に最も称賛されるに値することだったのです。
すべて、このことができずに地獄に行くようになるのです。
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事実、アベルの前には罪人にならないのです。
子供が間違ったとしても、父母が
「この野郎、今にどうなるか見てみよう」と、このように怨讐視しますか?
間違っても哀れに思ってくれるのです。
子供が受けた悲しみをみな解いてやるのが父母です。
神は、私たち人間の罪を記憶しないと語りました。
むしろ、サタン側で記憶しています。
同じく下の人が私の前で寂しさを味わうならば、
その人は必ずそのことを記憶しておきます。
しっかりと結びつけておくのです。
けれども、上の人は結びつけておきません。
私より信仰が良い人は、私が少し間違っても心の中に置いておかないのです。
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走ることでも同じです。
一番前の人は、目的地だけに向かって走りますから
後ろの人に対しては神経を使いません。
もっぱら目的地のことだけを考えて全体的に力を等しく分配しながら、
余裕をもって走ります。
しかし、後ろから走る人は、前に行く人を追い抜くことにだけ目的をおくのです。
ですから、自分の力は考えずにあるだけの力を尽くして走ります。
そのようになるならば、行く途中、しばらくは先を走りますが、
直ちに抜かれてしまいます。
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世の中でもお金が少しあり、学歴があると言っていい気になる人、
権勢に頼り、自分を大きく見せようとする人は、
大概長続きできずにひっくり返ります。
私たちが行く道でも、下の人が引っかかるのであって、
上の人は引っかかることがありません。
それで統一教会に入ってきた人は、先祖が現れて私たちを引っかけるのです。
私たちが教会に入ってこなかったときは、先祖たちが先立っていました。
しかし、入教すると、私たちが先に立つようになりますから、
先祖は自分の怨恨を解いてくれというのです。
いつでも下の人が難しいと思わなければなりません。
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ここに霊通する人たちがいるかどうか知りませんが、
大概霊通する人たちは、自分を発展させることができません。
自分を成長させることができないのです。停止したとでも言いましょうか。
その理由は、自分も分からないうちに霊界に主管を受けるようになりますから、
その霊よりも大きくなることができないのです。
自分がもっと発展しようとするならば、霊界から解放されなければなりません。
霊界につかまるようになるならば、霊界に報告し、
決裁を受けなければなりませんから、皆そうなるのです。
☆
霊通して霊界に主管を受けるようになるならば、皆そうなるというのです。
あとで肉身を脱いでみても、その霊の下以外には入っていけません。
原理的に見るならば、私が霊界を主管しなければならないのであって
霊界に主管されてはいけません。
霊通する人たちが統一教会に入ってくるようになるならば、
大概自分の使命が終わったあとには出ていきます。
ずっと残ってカインの前に尊敬を受ける人はいくらもいません。
それが易しくないからです。
☆
霊界をコントロールするのは、
簡単なことではありません。
特に、霊界に主管されてきた霊能者にとっては、
本当に難しいのだろうと思います。
霊界を認識できないものとしては、
「霊界を見るようになりたい・・・」
そんな風にも思ったりしますが、
興味本位ではいけないのでしょう。
原理講論の創造原理第6節においても、
「霊人体はどこまでも、地上の肉身生活においてのみ完成できる」
「霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる」
「我々は地上で善なる生活をしなければならない」
このように記されています。
霊界に関して語られている箇所において、
地上生活、肉身生活が重要であることを、
お父様は強調しておられるのです。
私たちには、天の父母様の夢と願いがあります。
マラソンのトップを走るランナーのように、
お母様が押し出してくださっていることに感謝して、
み旨にまい進していきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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