2019年01月27日

罪深い私のとなりにも、神様はおられる?! 離れることができない 《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ先生のみ言です。


このあいだドイツのある博士が、長老派教会の招待で韓国に来ていたのですが、
その人の話がキリスト教思想紙に載ったのを読んだことがあります。

その人が韓国に来て、韓国の聖徒たちと一緒に過ごしながら礼拝を受ける時、
その祈祷する姿やみ言を慕う姿に、信仰的に大きな刺激を受けたというのです。

ドイツで感じられなかったことを韓国に来て感じて、
その生き生きとした姿を忘れることができず、
ドイツに手紙を送ったという内容でした。


それは情的な次元が違うからです。
外国の食口たちも、韓国の食口に会うと20代にしかならない青年なのに、
自分に自分の親から言われるようなことを言うというのです。

「今夜、寝床はどうするのか」と尋ねたのですが、
外国ではそんなことを尋ねる習慣がありません。
ところが韓国の食口が寝床と食物を心配してあげるのを見て、
自分の親のように感じられるという話を聞きました。


神は人間と離れていることができない方です。
ですから神は、悲しまれるのです。

初めは神が去ったと思いました。
そのように去ってどこにいらっしゃるのでしょうか?
天のあの空中にいらっしゃるのでしょうか?

現代科学がどんなに宇宙を探してみても、
この地上の原理を離れて存在する所はないというのです。
太陽光線が届かない宇宙の隅まで探していってみても、
自然法則の原理に反する所はないのです。


宇宙を征服したとしても、地上のこの原理を離れて
法則があるはずがないように、
神が堕落によって価値が低俗化した人間と
一緒におられるといっても、神は低俗化しません。

自分の体が罪を犯しても自分の体であり、
自分の心が善を行っても自分の心です。

罪を犯したといって心が体に、
「あなたが罪を犯したので私はあなたと一緒にいられない」
といって離れることができるなら、神もそうするはずです。

行動は自分(体)がしておいて、心を辱めます。
ですから犯罪になるのです。

人間が過って、神を悲しませました。
神を悲しませたので、私たちも悲しみの中から解放されずにいます。
心が喜んでこそ体がうれしいように、
神が喜んでこそ私たちもうれしくなるのです。

それで「神があなた方の内におられる」
とイエス様が教えてくださったのです。

女性の行く道 1977年10月20日 中央修練所



「私」が神様を知らなくても、
神様は「私」とともにおられるし、
もっというならば、罪を犯したとしても
ともにおられるのが、神様です。

親子の関係もそうですね。
子供が親の言うことを聞かず、親が小言を言って、
ぷいっと親を振り向かなくなっても、
親は、子供を愛し続けます。

小説家・遠藤周作は、「沈黙」という本の中で、
神様は沈黙したのだと書いています。
日本に来た宣教師が政府につかまり拷問を受けた時、
神様を求めても助かることができない、
最終的には離教したのでした。

たしかに神様は「沈黙」をしたのかも知れません。
しかし、神様はただ黙っていたのではなく、
涙を流し、黙ってみているしかなかったのでした。

神様の真の心情を教えてくださった
真の父母様に心から感謝しつつ、
その神様のために精誠を尽くしておられる
真のお母様を求め、一つになり、
今週も歩んでまいりたいと思います。





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posted by ten1ko2 at 07:09 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする